4.戦争中の子どもたちの生活

 昭和16(1941)年からはじまった戦争によって、尋常小学校が国民学校と名を変え、小国民が少国民とよばれるようになり、徹底的に軍国主義の教育を受けるようになりました。私たち国民学校の生徒たちは、入学したその日から真っ白な心に、軍国主義、愛国心をたたき込まれ「日本は神の国です。この戦争は聖戦です。正義の戦いです。日本は神風が吹いて必ず勝ちます。」「あなたたちは天皇の赤子です。天皇のために命を捧げるのは一番美しい行為です」「欲しがりません。勝つまでは。この戦争のために、どんなことも我慢しましょう」と、くり返し、明けてもくれて臓腑にしみこむように軍国教育をされてきたのです。
 当時よく唄った絶対に忘れられない唄があります。
   勝ちぬくぼくら少国民/ 天皇陛下のおん為に/ 死ねと教えた父母の/
   赤い血潮を受けついで/ 心は決死の白だすき/ かけて勇んで突撃だ
 そして昭和19(1944)年6月に学童疎開が閣議決定され、都市に住む児童、国民学校3年〜6年生(9歳〜12歳)までの児童が学童疎開(地方へ移住)しました。
 次期戦闘員温存のために、病弱児を残して健康な子どもだけを疎開させたのです。親たちはこんな小さい我が子を手もとから離すことに戸惑いましたが、「国の命令だから仕方ない。親が万一死ぬようなことがあっても、子どもだけは国が護ってくれるだろう」と信じて、お国のために我が子を疎開させました。
 軍国教育を受けてきた子どもたちは、出征兵士になったつもりで疎開しましたが、集団疎開した児童の生活は軍隊そのもの。親への手紙は検閲され、団体行動からはみだすと廊下に長時間正座させられ、食事も少なく、お手玉の中の豆をアメのように大事にしゃぶっていました。「皇国民錬成」と称して徹底的にしごかれ、これも「戦争に勝つまでの辛抱」と、児童ながら先生の言われる通りに必死に耐え、がんばってきたのです。夜になると母が恋しくなり、誰にも知られぬようにふとんをかぶって泣きました。早くただ親たちにあえる日を待ちこがれながら、がまんの日々を過ごしていました。
 この疎開中に都市爆撃(空襲)をうけ、家もろとも親家族を一挙に失った子どもたちが続出しました。戦争中の大人は、孤児にたいして「君たちの親の死は、国難に殉じた尊い死である。親の仇を必ず討て。米英鬼畜をやっつけろ!」と叱咤、激励されてきました。
 昭和20年8月15日、敗戦。勝つと信じていた戦争が負けました。敗戦後、大人はたちまち豹変し「この戦争は間違っていました」といわれ、これまで使用してきた教科書を、墨て真っ黒に塗りつぶしていく作業から、戦後の教育がはじまりました。
 学童疎開は同年11月に終了、疎開していた児童たちも親元へ引き取られていきましたが、だれも迎えにこない孤児たちが大勢いました。親も家も失った孤児たちは、敗戦後の生活が困窮している親戚へ無料で押しつけられ、義務教育の小学、中学へも通えない子が多くました。親戚を追いだされたり、虐待されるようになっていき、親戚や養子先を逃げ出すようになります。家出するのは、2日後、3ヶ月後、1年後、2年後、5年後と様々でした。そして浮浪児になっていきました。それは凄惨な生活でした。
 浮浪児=宿がなく巷をさまよう子ども(後述する)。