8.青春はなかった

 酔っ払い相手の場末の飲み屋で3ヵ月過ごしました。なんとかふとんを買うお金がたまり、新聞広告で菓子屋が店員を募集しているのを知り応募しました。これまで親も家もないと正直に話すと採用されませんでしたから「姫路に親がいます」とウソをつき、ばれたら<そのときはそのとき>と腹をくくっていましたら、採用されました。
 ここでは女子寮があり、私と同時に採用された4人(5人採用)は、親元から大きなふとん袋や生活用品(洗面道具、下着、洋服)の入ったコウリなどが送られてきましたが、私は布団を買うと石けんを買うお金もなくなり、下着を水だけで洗っていましたら黒ずんできました。寮は六畳一間に女子5人、夜ふとんを5組を敷くと、足のふみ場がなく、私はふとんの上で腹ばいになって、手紙や日記を書いていました。
 お正月3ヵ日は全員が親元へ帰省します。私は帰るところがなく、寮で一人て過ごしました。広い建物は静まりかえり物音ひとつしなく、地底から寂しさが押し寄せてくるようで、本を読んでも頭にはいりません。当時の正月はコンビニもなくお店は閉じられ、食べ物も売っていません。<私にも喜んで待ってくれる家族がいたのに。心を支えてくれる家庭もあったのに。戦争さえなかったなら、浅草で暮らし、大学へいって青春を謳歌していただろう>。母たちを想いだすと深い悲しみに襲われていきました。
 やがて私はお金を貯め、気のあったTちゃんと二人でオンボロアパートを借りました。仕事も新聞広告で探し、親がいますとウソをつき法律事務所の雑用係に採用され、働きはじめました。部屋にはリンゴ箱だけ、それが食卓になったり、手紙を書く机になりました。何もないがらんとした殺風景な部屋でしたが、これまで他人の中で生活し、常に他人に見張られ、自由がありませんでしたが、ようやく自分自身の時間が持てるようになったのです。光が見えてきたようで、これからだと私は張り切っていました。
 一年近くすぎたころ、Tちゃんが付き合ってきた恋人と結婚し、部屋をでていきました。たちまち困ったのは、これまで半分の負担だった家賃の全額負担です。食費は豆腐一丁を半分に分けて食べ、洋服もTちゃんから借りていましたから、生活は行き詰まっていきました。
 そんなおりです。仕事中、左目に手を当てたら右目がボーとかすんで字が読めません。医師は成長期の栄養不足から眼底がざらざらになっている。(普通はつるつるしている)といわれ、そういわれてみれば肉や魚のタンパク質をほとんど食べていませんでした。
 左目も見えなくなったらと思うと絶望しかありません。誰もいない明かりも消した部屋で、ごろんと横になり天井を眺めていました。
 寮の食事は貧しいからと、同僚は外食で気分をはらしたり、おしゃれをしたり、映画を観にいきましたが、私は一切をがまんしてお金をため、階段を一歩一歩上がるように必死に努力してきました。それなのになぜ?。どうして次々に障害がたちはだかるの。
 <母と一緒に死んだほうが、とれほど幸せであったことか。死より生の方が苦しい>。
 私自身の野たれ死にした姿が目の前に浮かんできました。家族がいないから放置され、邪魔だと川に投げられている様子が見えてくるのです。どうなってもかまわないと自暴自棄になりかけていました。私を救ってくれたのは親友Hさんの友情でした。