11.老齢になっても孤児をぬけだせない

 苦労しなかったという孤児もいましたが、幸運だった孤児はごくわずかの一割弱でした。九割以上の孤児が、大小の差はあれ心に深い傷を負ってきました。
 親戚でもいきなり我が子でない子を育てなさいといわれても、敗戦直後は食料難の時代でしたから迷惑でした。孤児たちは「自分はよその子」「親がいないから仕方がない」と自覚していました。甘えたいさかりの子どもが、心を殺し耐え忍ぶ、悲しい自覚です。
 親戚へ遠慮して必死に働きました。働かなければ食べさせてもらえないと思っていました。
 それでも周りから言葉の暴力をうけてきました。「誰のおかげで置いてもらっているんだ。さっさと働け」「あの子は家の女中だよ」「家には泥棒猫がいる」「親といっしょに死んでいればよかったのに」「疫病神だよ」「ごくつぶし」など。心に突き刺さる言葉をいわれました。
 働けない幼い子は食事どきには外へ出されたり、親戚の家族団らんの食卓からはずされたり、一日に芋1本だけだったり、食事も与えられない子もいて、やがて衰弱して死んでいく子もいました。幼い子ほど哀れでした。
 殴る蹴るの暴力もうけたり、虐待された子もいました。義務教育の小学校、中学校へも通わせてもらえない子も多くいました。
 虐める側は、いじめが日常化していくと、何とも感じてなくなるのかもしれませんが、虐められる側にとっては、地獄でした。
 子どもゆえに訴えることができませんでした。<私はこの世に必要のない人間なのだ>。<自分は生きている価値のない人間だ><自分の人生は、空襲で孤児になったときに終わった>と暗闇を這っているような絶望だけの世界で、気持ちがずたずたに切り裂かれ、希望も夢もなくなりました。
 ようやく働ける年代になっても「孤児だから」という理由で、就職も差別されました。物がなくなれば、「あの子が盗った」と疑いの目でみられてきました。私は100円道に落ちていても、黙ってポケットに入れられない性分ですが、何回も疑いの目で見られてきました。
 結婚も差別されてきました。「どんな育て方をされたかわからない」「どこの馬の骨だかわからない」と、常に偏見の目で見られてきました。「あの人孤児だってさ」と、何か悪いことをしてきたように、侮蔑の態度をとられてきました。
 私たちは孤児であることを隠して生きてきました。孤児だったことを知らなければ、ごく普通に暮らせたからです。「あなたの生まれはどこ?」と聞かれ「東京」。「親は?」「亡くなったの」とそれだけしかいってきませんでした。
 しかし、必死で働きようやく人並の生活ができるようになっても、親戚の人から育ててやったと恩にきせられ、物品を要求されたり、いつまでも女中扱いされたり、こころに傷つく言葉をいわれました。
 孤児であったことが一生つきまといました。老人になっても心が癒やされず、心の傷を引きづっていますから、戦争孤児からどうしても抜け出せません。