おわりに

 孤児たちは実によく働いてきました。幼いころから働き、それが習慣になっていたのか、身を粉にして働き、努力して生きてきました。私は長いあいだ孤児たちと付き合い、感じたのは「三つ子の魂百まで」ということわざです。三歳まで両親の愛に育まれてきた子は、孤児になっても三つ子の魂は健在で、<自分にも愛されて育った家庭があった。どれほど我が子の将来を案じて死んでいったことか。親から受けついた人間としての誇りを持ちつづける>と、逆境を乗り越え、苦難の人生を生きて抜いてこられました。弱者を思いやる心と、芯の強さ、優しさを持っています。
 無我夢中で働いてきた孤児たちは、晩年になり一息つくようになりました。そして、「二度と思いだすまい」と心の奥底に閉じ込めてきた心の傷が疼きはじめました。心理的虐待と同時に片時も離れなかった親への思い<自分たちが死んだら、空襲死者は闇に葬られるかもしれない。親の追悼ができなくなる>という恐れでした。
 日本は世界第二位の経済大国になり、文明国として、何もかも電化された便利をむさぼり、遺骨の上に立派なビルを建て、その上で、贅沢な生活をしています。様々な博物館、美術館、資料館などが林立していますが、なぜ、空襲死者の独立した追悼碑や、空襲資料館は建てられないのでしょうか。
 国の政策に殉じた無辜の人が、命を断たれたのです。死者を顕彰、追悼するのは、国として道義的責任があるのではないでしょうか。このまま放っておいていいのでしょうか。
 現在、各地にあった第二次世界大戦の空襲は、すっかり風化しています。ほとんどの人が、空襲の実態や、死者がどのように扱われたかを知りません。戦後50年の3月10日、空襲の節目の日にも、新聞には空襲記事が何も載っていませんでした。広島、長崎は大きな見出しでよく報道され、日本国中、世界中が知っており、総理大臣も出席する追悼式もあります。 空襲は東日本大震災や原発事故のような映像があれば分かりやすいのですが、空襲の写真や資料は、軍とアメリカ占領軍に隠蔽されてしまいました。人災のため隠され表に現れませんでした。それ故、空襲の実態が判らぬまま今日に至りました。
 正直にいって空襲の焼け野原は、東日本大震災の数倍以上(10倍以上という人もいる)の言葉にならない凄惨な光景でした。
 戦争孤児や空襲遺族は家を失ったあと、元住んでいた東京へ戻ることができず(食料不足のため転入禁止令があった)、天災のような支援が何ひとつなく、流浪の民になり、各自が孤立していましたから、集結が難しく、個人では何もできませんでした。
 「東京空襲犠牲者遺族会」が星野さんたちの努力で約10年前にやっと結成され、すでに高齢になっていましたが、国から長期にわたり放置、棄てられてきた傷害者、遺族、孤児たちは「このまままでは死ぬにも死ねない」という怨念から、裁判に参加しました。体験者が語らなければ誰にもわかりません。闇に消え、何事もなかったことになります。
 裁判でようやくマスコミに取り上げられるようになり、国会議員も立法化へ向け、6月15日に「議員連盟」が設立され動きはじめました。私たちは80歳近くの高齢ですが、「この結果を見届けるまで死んではならぬ」とお互い励まし合っています。