5.厚生省の孤児調査

 敗戦後から浮浪児が増えつづけ、あまりにも浮浪児の多さに、アメリカ占領軍のマッカーサ元帥が孤児問題専門家のフラナガン神父をアメリカから呼び寄せました。フナラガン神父は全国各地の孤児施設を見学したり、関係者と会ったり精力的に活動し、「孤児総数を調べなければ、孤児対策はたてられない」といわれ、厚生省が昭和22(1947)年12月末より全国の児童委員、民生委員、施設職員、その他の関係者を総動員した全国規模の孤児調査を行い、その「調査結果・孤児データ」を23年2月1日に作成しました。
 戦争に起因して、敗戦後の孤児は、123、511人いました。
孤児とは両親がいないこと
  ・父が戦死、母が病死、または戦災死。
  ・両親ともに戦災死。

  ・母か父の片方が戦災死、片方の親が病死して、両親ともにいない子ども
を総称して戦争孤児といいます。片親でもいれば遺児です。(戦没者遺児や震災遺児)
 現在では、養護施設にいる虐待児童や両親の離婚などによる児童は孤児ではありません。交通事故による両親の死亡、または病死による両親の死で孤児はいるかもしせんが、数が少ないのではないかと思います。
 戦争や地震などの災害がある場合は、孤児数が異常にふくれ上がります。
 この数の中に浮浪児と養子にだされた孤児は算入されていません。養子は親がいるという理由から孤児でないとみなされ、浮浪児は住所不定で数えられず、浮浪児、約3万5千人(朝日年鑑)いたといわれています。これらを合計すれば孤児数はもっと増えます。
 66年前、第二次世界大戦の末期には、日本国内の大、中、小都市(東京、大阪、神戸、横浜、名古屋など)が、敵の激しい攻撃(空襲、艦砲射撃、機銃掃射)をうけ、家を焼き尽くされ、住むところのなくなった人は1000万人もおりました。
 まさに東日本大震災の跡と同じ、人口の密集していた街、家々が一瞬にして消え、荒涼とした砂漠が目の前に広がり、そして60万人の民間人が戦災死したのです。
 そのことを考えれば、孤児が多くいても不思議ではありません。とくに小学3年〜6年生までの都市に住む児童は、学童疎開によって親許を離れ、地方へ疎開していました。
 疎開中に都市空襲にあった親、家族が全滅して孤児になった子が多く輩出されました。最近の全国疎開学童連絡協議会や私の調査から、疎開中の孤児数7万人と推測しています。
 孤児総数123.511人のうち
  ・親戚に預けられた孤児   107.108人
  ・施設に収容された孤児    12.202人
  ・独立した生計を営む孤児    4.201人
と厚生省調査の保護者別は以上のようになっていました。
 施設へ入所は一割、あふれた孤児をみかねた民間の篤志家が施設をつくり、孤児を収容したものが主でした。親戚へは約九割、ほとんどの孤児を無料で親戚へ押しつけました。国は孤児への救済措置をとらなかったといっても過言ではないと思います。
 厚生省はこの全国孤児調査結果を公表しませんでした。十数万人もいた孤児は消され、日本の歴史に遺されていません。