2.親戚での孤立

 昭和16(1941)年12月8日にはじまった第二次世界大戦は、昭和20(1945)年8月15日、日本は、無条件降伏という惨めな結果に終わりました。完全敗北です。そしてアメリカに7年間も占領、支配されました。
 日本の都市部は空襲によって壊滅状態になっていました。孤児になった私は、東京から関西、都市から農村地帯と親戚に預けられ、この敗戦の年1年間に4回も学校を変わり、各地を転々としました。知らない所、仲間のいない生活は、不安が募っていきました。私が親戚へ預けられた先は、生活習慣も言葉も違いました。
 転校したクラスの女の子に「なんやて、ウチのことアタシというてはるわ。けったいやなぁ」。男の子に「どぐさいこといいよんな、どあほ、どついたろか」(へんな言葉をつかっている。バカ、叩いてやろうか)。私が話すたびに笑われ、私は異物であり、休み時間は、校庭の隅で一人ぽつんと縮こまっていました。
 最後に預けられた親戚には、子どもが7人、そのうち男の子が4人、伯母は「ぎょうさん子がおって、一々子にかまっておれへん」と放任主義でした。いとこの男の子たちは殴り合いのケンカ、女の子は言いたい放題でした。母はしつけに厳しくお客さまが来宅すると、三つ指ついて丁寧に挨拶してから座布団をさしだした浅草の生活とは大違いでした。
 手を繋いだ親子づれの姿、「ねぇ、あれ買ってよ」と親にねだる姿を見るたびに、甘える人のいなくなった私は苦しくなり、心が壊れそうになりました。
 浅草の観音さまのすぐ近くで生まれた私、ほほずき市、羽子板市、朝顔市など市のたつ日は親子4人で手をつなぎ浅草寺へ行き、帰りにあんみつを食べるのが楽しみでした。三社祭、隅田川の花火大会、お祭りの好きな賑やかな街は私の故郷でした。
 私が熱をだしたとき、一晩中付き添い、額のタオルをとりかえ、心配そうに私をのぞき込んでいた母、疎開先へ毎日のように手紙をだしてくれた優しい姉、いつも金魚のフンのように私についてあるいていた可愛い妹てした。
 もう二度とあの楽しかった生活、愛に満ちた生活に戻れなくなりました。<お母さん。私もお母さんのの側へ逝きたい、お母さんたちにあいたい>と、毎日泣いていました。
 ある日、母の夢を見ました。「マリちゃん、ごめんね。ひとり残してコメンネ。お母さんも死にたくなかったのよ。生きていたかったの。お母さんをゆるしてね」
 夢にでてきた母の顔は、蒼色で、頬がこけ、これまでに見たこともない悲しい目で、私にしきりに謝っているのでした。これほど悲しみに満ちた姿は、見たことがありません。子を案じながら死んだ母をどうして忘れられるでしょうか。
 <なぜ、母たちは殺されたの。どうして死ななければならなかったの。お母さんたちは悪いことしてきたの?。祖母は「おまえのお母さんはね、初物がでると、おばあちゃんから食べてください。って一番先に食べさせてくれた。それは大切にしてくれたんだよ」とよく話していました。姉は成績優秀で子ども好き、学校の先生になるのが夢で猛勉強していました。妹は明るく、お茶目で皆から可愛がられていました。それなのに、なぜ>
 すがりつくものが何もありませんでした。私は神さまを恨みました。そして神さまも仏さまも、この世にいないのだ、と思いました。