12.語れなかった孤児たち

 以前新聞に「戦災孤児が、孤児と判明して自殺した」という小さい記事が載っていました。友人から「今、家庭を持ち、幸せにくらしている人が、なぜ孤児だったと判明したら、自殺しなければならないの?。どう考えても分からない。なぜなの?」といわれました。私にはすぐに判りました。孤児は過去に、生きるため売春婦になったり、あるいは盗みをして刑務所に入れられたり、他人に知られたくない過酷な人生を送り、そのことが判明して、世間の人たちから後ろ指を指されるのです。まるで大発見したかのように「あの人はこんな人だったてさ」と、こそこそと集まってはウワサをし、軽蔑の眼差しでみるのです。たぶんいたたまらなくなって自殺したのでしょう。
 自殺した孤児は私の知っているだけで数人います。精神異常になった人もかなり多くいます。これは氷山の一角ではないかと思います。
 孤児の命は非常に短いです。餓死(食べられない)、凍死(氷点下の寒さの中で)、中毒死(腐ったものを食べて)、虐待死(コン棒で殴られたなど)、変死(原因がわからない)、病死(伝染病など)衰弱死(体が弱っていく)、自殺(将来を悲観して)などで早死しています。
 ようやく苦難を乗り越えて生き抜いてきた人が、私の周りで、50代、60代で次々に他界しました、成長期の栄養不足も原因の一つで長生きできないのでしょう。孤児の平均寿命は、被爆者の生き残りに匹敵するのではないかと思っています。
 また、実に行方不明者が多く、同窓会の名簿にも孤児の氏名がなく、何とか探しだしたいと、八方てを尽くしても行方がわかりません。山田さんの12名の孤児仲間は、一人の行方もわかっていません。

「66年も過ぎた昔のことを、今さら何をいうのか」とよくいわれます。
 孤児たちは家族や夫にも、もちろん他人に孤児の体験を話したことはなかったのです。惨めな過酷すぎる体験は、心の中にとじこめ、触れられると飛び上がるほど深い傷です。引きずりだすのは心の傷をえぐりだされるようで、誰にも触れてもらいたくないのです。
 たいていの新聞記事には「孤児は親戚を転々とした」と、たったそれだけ。親戚でどのようなことがあったか、心の傷については述べられていません。
 話できない孤児たちに、私は「話たくないことは省略して、話できるところから語っていきましょうよ」といってきました。楽しいことなら楽に語れますが、60年以上すぎても涙なしに話できませんでした。話の途中でわっと泣き伏す人もいました。または「思い出したくないから勘弁して」という人。まだ話出来ない孤児は多くいます。
 「夫が病死したので、やっと話できた」「親戚の当事者が亡くなったから」「自分だけが辛かったのでなく同じ仲間がいたから」「今語っておかないと証言者がいなくなる」「子や孫に同じ思いをさせたくない」「語らなければ日本に戦争孤児がいなかったこしとになる」「自分の遺言だ」とみなさん理由は様々ですが、戦後60年以上すぎてから孤児証言が出てきたのです。それほど長い年月を要しました。
「今さら何を」ではなく、「今だから言えるようになった」というべきでしょう。