7.上京後の私

 私は昭和29(1954)年、学校卒業後に無一文で東京へでてきました。汽車賃は友だちからの餞別でまかないました。19歳になっていましたから働けば生活できると安易に考えていました。
 9年ぶりにみる東京は家々が建ち並び、あの焼け野原だった面影がどこにもありません。私の元住んでいた浅草聖天町では、元の場所に戻れたのはKさん一家族のみ。家族ぐるみ親しくしていたSさんも、隣のUさん家族も全部、空襲で死んだそうです。知らない人たちが空襲の跡地に家を建て住んでいました。私の古里はなくなっていました。
 私は家がないので住み込みの仕事を探しましたが、親も家もないので断られ、やっと見つけたお茶屋の住み込みの女店員も夜具を持ってくるようにいわれ、ふとん一枚買うお金もなくあきらめました。そしてふとんなしでも働ける女中や飲み屋の女給になりました。(女中は差別用語として現在は使われていない)
 最初にいった先は夫婦共稼ぎの学校の先生宅。子は中学、小学、2歳の3人。私は2歳の子の世話と家事一切の仕事をしました。夜は六畳一間に中学、小学の男の子2人と私の3人が一緒の部屋に寝ていました。
 女先生が入院して留守になったときです。真夜中、体が重いものを感じてめを覚ますと、男先生が馬乗りになっていました。驚いてはげしく抵抗しましたら、側に寝ている男の子が目をさましたということが2回も(未遂)ありました。それを知り合いに話しましたら「あなたにスキがあったのではないの。女中じぁねえ」その言葉に<女中、孤児はだれに何をされてもいいのか、人間扱されないのか、それほど軽蔑されていたのか>と、理解者であると思っていただけに、ひどいショックをうけ落ち込みました。
 次に浅草で飲み屋の女給になりましたが、1ヶ月目に、そこの女将(60歳ぐらい独身)に「養女になるように」といわれました。<養女にすれば給金を払わずにすむ、老後の面倒をみてもらう>という魂胆がみえていましたから断りましたら、その場ですぐ「出ていけ」と追い出されました。
 夜の浅草繁華街ではヤクザがうろうろ俳諧し、家出娘を狙っていました。浅草寺のそばにしゃがみ、お金もないし、泊まるところもない、「これからどうしょう」と頭を抱えこんでいましたら、ヤクザから「ねえちゃん、そんなところで何しているんだ」と声をかけてきました。ヤクザに捕まると売春宿へ売られます。
 私の小さいボストンバック、この中には母たちの写真と、わずかな下着類、これが私の全財産です。このバックを下げ夢中で走りました。<お母さん、助けて>と心の中で叫んでいました。ふと見ると、目の前にキリスト教会の十字架があり、真夜中にそこへ泊めてもらいました。母が助けてくれたと思いました。
 あくる日から今晩ねるところを探さないとと野宿になります。「女給募集、通勤、住込み可」と店のとびらに貼ってある飲み屋を、一日中探しました。場末の女給は身元の調査をしない、過去を一切問わない、保証人がなくていい。いわば底辺の仕事です。家もなく、金もなく、寝るところもない私にはゆとりはなく、切羽つまり、こういう場所しか働ける場所はありませんでした。