9.戦災犠牲者と元軍人

 日本は朝鮮動乱(1950年)を機に特需景気がおき、庶民の生活は潤い、敗戦から10年以上すぎますと、まるであの戦争がなかったかのように、街は活気づき、食べ物も衣類もあふれ、所得はうなぎのぼりに上がり、人々の生活は豊かになり、道行く大人も子どもも、顔は輝いているようにみえました。そうした中で戦災遺族は置き去りにされていました。貧困と闘っていたのです。
 私と同じボロアパートの住人、Sさん(当時40代)は、同じ3月10日の空襲で、母親を失い、S家も焼け、ご主人が右手に火傷を負い失業しました。そのためお金も家もなく、このボロアパートに住み、いつまでたってもここから抜け出せないと嘆いていました。Sさんは私を差別することなく、対等に扱ってくれ、何かと話かけてきました。
「ねぇ、お隣の大家さんは官僚の偉い人だってさ。もと軍人で、またその恩給がすごい金額だって。大家の奥さんは、夫が軍幹部の偉い人だったと自慢しているのよ。大家さんの家族で戦争で亡くなった人はひとりもいないのよ。息子が戦死したのなら、遺族の苦しい気持ちがわかるから、遺族年金を支給されるのは当然と思うけど、生きて家族の元に戻り、そして家も焼けなかった。失ったものは何もないのに、元軍人だったというだけで、なぜ国から膨大なお金が支給されるの。変よねぇ。戦後は官僚で働き、その上、軍人恩給をうけ、いわば給料の二重取りでしょう。彼等の軍人は戦争で儲けたのよ。」
「え?。軍人恩給って何ですか。そんなに高額金なのですか」私は初めて知り驚きました。
「元軍人は、階級が高いほとすごい金額がでるそうよ。大家さんも古い家を建て替えて、立派な大きな家をつくったり、新車を乗り回したり、我が子に贅沢ざんまいさせて……。近々このアパートも取り壊して新しいアパートにするそうよ。いづれ追い出されるのよ」。
「それにしても戦争を起こし、敗戦にさせたのは軍人でしょう。私はしょうい弾の火の海の中を逃げまどい、母親は目の前で火柱になって焼け死んだのよ。あの残酷な姿は気が狂いそうになるの。目に焼きついて頭から忘れないの。母親を返せと叫びたい。夫も手をやられ、私たちの生活はメチャクチャに壊されてしまったのに。私たちには支援も補償も何ひとつなく惨めねぇ」。悔しそうに唇をかんでいました。
 私は厚生省へ電話して聞いてみました。「軍人恩給は法律で決められていますから補償されます。あなたたちは戦没者ではありません。ここでいう戦没者というのは戦死者です。戦災死没者に補償、援助はありません」とはっきり言われました。今も耳に残っています。
 また、友人のNさん(12歳小6)は疎開中に空襲で、一家が全滅しました。親戚をたらい回しされ、最後に美容院へ住み込みました。成績優秀だった彼女は、女中かわりの家事労働をしながら美容師の資格をとろうと、夜遅くまで猛勉強して5年間、やっと国家試験をうける段になって中学を卒業していないために資格がとれませんでした。彼女は国に手紙を書いて窮状を訴えたそうですが、ついに返事がきませんでした。彼女は戦後30年すぎ、40歳になってから夜間中学へ入り勉強しました。
 私の心は荒涼とした砂漠のような焼け跡と同じ。お金がなければ、食べ物も、住むところも、衣類も、教育も、遊びも何ひとつできません。孤児は極貧生活だったために、世間から軽蔑され、差別され、偏見の目でみられたのでしょう。