6.文部省、厚生省の疎開孤児の対応

 学童疎開を国策として行った文部省や厚生省は、疎開中の孤児に対してどのような対応をしてきたか。学童疎開中の孤児資料をさがしたが肝心のデータはどのこにもなかった。


◆ 戦災孤児を収容する「国児院」ができなかった
 空襲により学童疎開した中に孤児が大発生したため、昭和20年6月より「国難によって生じた孤児である」と、草場氏、宮内氏をはじめとして関係者が「国児院をつくり国家的救済をせよ」と関係当局に猛裂な運動を展開した。
 これに対して厚生省は6月28日に「国家において保護育成し、殉国者の矜持を保持せしめる」と発表したが、国は「国児院」をつくらなかった。

◆ 戦後に発表した文部省の文章 (結局つくらなかった)

  戦災孤児等集団合宿教育所ニ関スル要項 文部省(昭和20年9月15日)
 戦災孤児等ノ収容人員ハ1ケ所ニ250人トスル。本施設ニハ自給自足ノタメ必ズ 付属農場ヲ附設セシムルコト。国庫ハ都道府県ニ対シテ経費ノ8割ヲ補助スル。
  国庫予算ノ都合上之ヲ認メザルコトモ有予メ御了知申添フ
 とA4、2ページに詳しく書いてある。経費については「寮費、農場費、給料、食費、就学費、開設費」と詳細な数字が羅列してある。孤児データが何も無い中、この文書だけが残されていた。従って「養護施設30年史」「東京戦災誌」をはじめ、あらゆる孤児資料にこれが載り、疎開中の孤児は保護されたと書いてある。
 しかし、私が教育史を調査した結果、東京はじめ戦災都市の大阪、神戸、尼崎、兵庫の教育史には250人収容した施設は一カ所もなかった。(教育史は「東京大空襲と戦争孤児」に記載) 机上の空文であるのなら、なぜこの文書だけを残したのか。

◆ 東京都教育局の文書 (予算をつけなかった)
  戦災孤児等保護対策要綱 東京都教育局 昭和20年9月20日
イ、個人家庭への保護委託  ロ、養子縁組の斡旋  ハ、集団保護
 となっていた。都教育局は具体的にどう扱つかったか。
 イ、ほとんどの孤児を、親戚、知人宅に無料で引き取らせ、委託料の支払はなかった。
 ロ、引き取り人のない孤児は、調査をせずに、どしどし養子にだした。

 ハ、「東京戦災孤児1169名の内、引き取り手のない孤児345名を三多摩の8学寮に収容した」となっていた。1169名はどこから出した数字でなのか。東京都の集団疎開孤児の数はこの20倍ぐらいいたはずである。私は2万人以上と予測している。
 また、引き取り人のなかった孤児も、345名という微少の数ではなかった。私は1万人以上と予測している。
 この8学寮の孤児は、私や疎開協が調査した結果、養子にだして数を減らし、最終的には大円寺の小山氏が孤児施設を建て、その小山学寮一つになり、保護養育したのは81名だけだった。小山氏は孤児養育に悪戦苦闘していた。(第一章に記述)
 これでは、学童疎開中の孤児に国の予算をつけているとはいえない。救済しなかったことがはっきりしてきたのである。

◆ 集団疎開中の孤児データがない (隠蔽した)
1、集団疎開は24時間、学校ごと先生、生徒が寝食をともにしていた。学籍簿はもちろん、配給をうけるため住民票も疎開先にあった。生活のすべてを学校側に託し、各家庭の状況も先生は把握していた。学校側は児童の命を預かり、校長が全責任を負っていた。
2、集団疎開の経費は20円かかるが、親の負担は10円だった(当時教師の初任給は50円)。その他学用品、衣類、生活用品などは親が仕送りしていた。親がいなくなれば 誰が払うのか、当然調査しなければならない。
3、残されたわずかの国の資料の中に「罹災家族調書、至急提出せよ」との書類がみつかった。また「疎開復帰計画」の中にも「戦災孤児ノ身分、財産、親類縁故関係等ヲ能フ限リ詳細ナル調査ヲナシ置キ」とあるが、この結果の資料が何も無い。
* 以上から集団疎開中の孤児数は3月10日から疎開終了まで半年以上あり、判明していたはずである。○区、○学校の○学年に○名のなどあるはずである。この肝心な孤児データがどこにもない。

◆ 学童疎開終了 1万7千人が、各疎開地に残留
 東京では引き取り手のない児童、1万7千人が、各疎開地に残留していたが、「東京都百年史」には、以下のように記載されていた。
 「東京都教育局の発表によれば、集団疎開中の孤児、1169名のうち、引き取り手のないもの345名であった。昭和20年11月に、そのうちの114名が孤児学寮に収容され、残りの231名は疎開寮に継続残留したが、同21年3月、疎開終了の時点で全員、多摩地区の孤児学寮に収容されている」と。21年3月に孤児寮に入所した孤児はいなかった。東京都教育局は、事実でないことを発表していたのだ。

官僚は孤児資料を隠蔽した
○ 昭和23年2月1日厚生省の「全国孤児一斉調査」データを、なせ隠してきたのか。孤児の生のデータはこれしかない。公表すべきデータを隠す必要はないはずだ。
○ 文部省は集団疎開中の孤児数を調査したはずである。孤児データが何一つないのは、なぜか。考えられない。完全隠蔽したと思われる。
○ 各孤児資料にある「全国戦災孤児概数3000人、学童2400人」は、どこから出したのか。その根拠になるものがどこにあるのか。なせ微少の数を発表したのか。
○ 文部省は実施しなかった文書だけを、あたかも孤児を保護したかのように残していた。この文書で「疎開中の孤児は保護された」と様々な関係資料に載せられている。世間はこれを信用していた。国民をあざむいてきたといえる。

 国内が戦場になったため学童疎開中に大量の孤児が発生した。援護するには相当の費用が必要になる。軍人遺家族を特別扱いをしなければならす、当時の厚生局長がいうように、戦争孤児は念頭になかったのだろう。
 しかし、国策で疎開させたのだから、国会、国民から追及される恐れもあり、責任逃れや自己保身のため、トップ官僚の指示により完全陰ぺいを計った。わずかな数の発表で保護したことにしておいた。戦争に必要なくなった子どもは、棄てられたのである。