2.全国戦災史実調査報告書
    戦災孤児 昭和57年度
     昭和58年3月 全国戦災遺族会

     はしがき
 社団法人日本戦災遺族会では、総理府の委託を受けて、昭和52年度以降ひきつづいて、全国戦災史実調査を行ってきました。その目的は、先の大戦における戦災をさまざまな角度から調査し、その実態を明らかにすると共に、これを系統的に整理記録して、戦争惨禍を後生の人々に伝えることであります。戦災死没者の慰霊にいささかでも資することを心から願うものであります。
 今回は46都道府県における戦災により犠牲になった戦災孤児に関する記録を対象に調査したもので、この報告書はその調査結果の実態を整理してまとめたものであります。
 この調査に際しては、都道府県や市町村をはじめ、国公立図書館、公私立施設関係者、日本戦災遺族会の各地の会員、その他多数の方々に並々ならぬ御協力をいただきました。
   昭和58年3月 社団法人日本戦災遺族会 理事長 坪井貞治

 
この「戦災孤児」は「はしがき」にもあるように、戦災遺族会が各方面、各機関の協力を得て全国規模で、あらゆる資料文献が網羅された報告書で精力的に調査したものである。
 「戦後30数年たち、孤児資料も千差万別で困難を極めた。戦争がもたらした社会混乱の中で孤児たちの生活状態はどうだったか、そして国が保護する過程までを探ってみようと試み、公式記録や、新聞等にみる戦災孤児などを収録した」とのべている。

   戦災孤児の概要 日本戦災遺族会より(要約)
 「廃墟の中で敗戦を迎え、空襲で両親を失った孤児、学疎開疎開したが帰る家のなくなった孤児。その後、外地から帰ってきた引揚孤児たちが大勢いた。これらに対する救済措置は国、国民の責務といえ、満足のいく孤児対策はたてることができなかった。
 巷にさまよう孤児たちは闇市をふらつき、その日をすごす生活だった。浮浪児は白眼視され、露骨に厄介者扱いされていくのである。浮浪児から不良児になり、東京では、昭和20年12月より「刈り込み」が行われ収容したが、逃げ出す孤児が多かった。
 昭和22年12月より厚生省が「全国孤児一斉調査」に乗りだすことになった。この結果、123.511人の孤児のいたことが判明した。その内、8歳〜20歳(数え年)が全体の90%を占めているのが、大きな特色といえる。このことは最大の問題である浮浪児と深くかかわっているのである。孤児収容施設の絶対数が少なく、収容施設は、孤児全数の10%にすぎなかった。
 昭和23年4月に児童福祉法ができたが、浮浪児は減るどころが増える一方で、国は、23年9月に「浮浪児根絶緊急対策要綱」が閣議決定され、取り締まりを強化した。
 浮浪児は戦争の犠牲者であり、厳重な取り締まりばかりが根絶の方策ではない。暖かい救援の手を差し伸べることによって、初めて成就するのである」と述べている。

  戦争孤児総数について

 公表しない厚生省調査
 
国は孤児調査などしたくなかった。微少な孤児数で落着させようとしていた。それが、あまりにの浮浪児の多さにGHQのマッカーサ元帥が、昭和22年4月にアメリカから孤児問題専門家であるフラナガン神父を呼び寄せ、神父は精力的に孤児施設などみてまわり、そして「孤児総数を調査しなければ、孤児対策はたてられない」といわれた。国は、仕方なく厚生省が昭和22年末から調査したものである。
 戦災遺族はこの全国規模の孤児調査に、重大な関心をもっていた。戦災孤児は戦災遺族として自分たちの問題でもあったのだ。もちろん遺族の中で児童委員やその他などで調査に関わった人もいた。そして、その結果も入手していた。
 厚生省ではその結果を公表しなかったが、それを、はじめて戦災遺族会編「戦災孤児」に挿入した。こうして昭和23年の厚生省調査から38年すぎてから「全国孤児一斉調査」が日の目をみたのである
 しかし、この冊子も探すのは容易ではなかった。私が知ったのは戦後50年を過ぎてからである。なにしろ孤児調査をしようとした多数の個人、団体が図書館などを徹底的に調べても「資料が何もない」といって嘆いていた。やっと横浜図書館にあると聞いて私は、はるばる出かけたが「戦災孤児」と題名がなっているにもかかわらず、検索しても出てこない。あきらめて帰りかけたが、「全国戦災史実報告書」で検索したらあった。これでは国はおそらく誰の目に触れることは難しいだろう。
 この「戦災孤児」(戦災遺族会編)は各図書館におくべき貴重な調査資料でありながら、消えてしまっていたのである。とくにこの中にあった「昭和23年2月1日厚生省の全国孤児一斉調査」は公表されるべきものでありながら、国が公表しなかった。東京教育研究所の人さえ、「厚生省が調査したと聞いたが、結果は未詳である」と述べているのである。

 国の発表した孤児数
 戦争孤児総数は、厚生省の調査で123、511人もいたのである。

それを国は、国会で「孤児概数は3、000人、乳幼児500人、学童2、500人であります。その3000人のうち、親戚におるものが1500人、社会事業施設におるものは1500人となっております」と述べているのである。(後述する)
 12万余りいた孤児を、たった3000人の孤児だと国会で報告する国。まったく仰天スル以外なかった。このような驚くほど微少な数字を、どこから出してきたのであろうか。この数字を国民のすべてが信じこんでしまったのである。
「東京都戦災誌」「恩賜財団同胞援護会」その他の孤児資料を見ると「戦災孤児概数は、2837名で、学童2400名、乳幼児437名である。主なものは 東京都1169名、広島県583名、新潟県465名等となっている」。
 この数字が長年にわたり人々の間に浸透してきたのだ。従って「戦災孤児たちは保護され、落ち着いたはずである」ということになっていた。66年すぎた現在も、この国の発表した数字だけが残され、12万余りいた孤児の歴史は残されていない。