5.国民学校世代の浮浪児

 浮浪児は3万5千人(朝日年鑑)。当時の新聞記事には4万人となっていた。浮浪児はどの新聞記事や資料をなどにも、10歳前後と記述してある。なぜ小学生の浮浪児がかくも多かったのだろうか。
 全国孤児一斉調査では10歳前後の孤児が突出している。123.511人の内、約8割が小学生なのである。なぜこれほどの小学生の孤児が生じたのか。それは学童疎開があったからといえる。なにしろ都市の児童70〜80万人が学童疎開していた。学童疎開中の孤児数は、私や疎開協の調査から約7万人と推測している。私は全国孤児一斉調査の年齢別孤児数によって、「学童疎開によって大量の孤児が発生した」と確信をもった。浮浪児が一挙に増えたのは学童疎開が終了した時期と一致している。学童疎開が孤児をつくり、浮浪児をつくったのである。この年代は国民学校の世代であった。

国民学校の世代
 昭和16(1941)年からはじまった戦争によって、尋常小学校が国民学校と名を変え、小国民が少国民とよばれるようになり、徹底的に軍国主義の教育を受けるようになった。国民学校で学んだのは、昭和2、3年生まれから、昭和13、4年生まれである。
 私は昭和17年に国民学校1年に入学した。国民学校6年の姉に手を引かれ、校庭の一角に建てられた「奉安殿」(天皇の写真が飾ってある場所)に最敬礼すものが日課で、毎朝の朝礼では校長の軍事訓話があった。私たち国民学校の生徒たちは、入学したその日から真っ白な心に、軍国主義、愛国心をたたき込まれた。「日本は神の国です。この戦争は聖戦です。正義の戦いです。日本は神風が吹いて必ず勝ちます。」「あなたたちは天皇の赤子です。天皇のために命を捧げるのは一番美しい行為です」「欲しがりません。勝つまでは。この戦争のために、どんなことも我慢しましょう」と。くり返し、明けてもくれて臓腑にしみこむように軍国教育をされてきたのである。
 私たちは2年生で「教育勅語」を暗記させられた。「チンオモウニワガコウソコウソクニヲハジメルコトコウエンニ…………」漢字で書かれた意味不明の長い文を暗記させられた。朝に晩に、学校への行き帰り、寝てもさめても、お経を唱えるように暗記するのだが、ひらかなを習いはじめたばかりの2年生では難しすぎた。(当時の1年生はカタカナからの学習が先で、次にひらかなを習ったのである)
 当時よく唄った絶対に忘れられない唄がある。
   勝ちぬくぼくら少国民/ 天皇陛下のおん為に/ 死ねと教えた父母の/
   赤い血潮を受けついで/ 心は決死の白だすき/ かけて勇んで突撃だ
 国民学校で教育された99%が、軍国少年、軍国少女に育っていった。子どもは純真無垢であるだけに大人より染まりやすい。教育の恐ろしさを痛感している。
 そして昭和19(1944)年6月に学童疎開が閣議決定され、都市に住む児童、国民学校3年〜6年生までの生徒が学童疎開(地方へ移住)した。9歳3年生といえば、現、皇太子の子、愛子さまと同じ年齢(2011年現在)である。この年代の子等が親と離れて生活するのである。今の若いお母さんたちに想像できるであろうか。
 次期戦闘員温存のために、病弱児を残して健康な子どもだけを疎開させた。親たちはこんな小さい我が子を手もとから離すことに戸惑ったが、「国の命令だから仕方ない。親が万一死ぬようなことがあっても、子どもだけは国が護ってくれるだろう」と信じて、お国のために我が子を疎開させたのだった。
 軍国教育を受けてきた子どもたちは、出征兵士になったつもりで疎開した。集団疎開した生徒の生活は軍隊そのものの生活だった。親への手紙は検閲され、団体行動からはみだすと廊下に長時間正座させられた。食事も少なく、お手玉の中の豆をアメのように大事にしゃぶっていた。「皇国民錬成」と称して徹底的にしごかれ、これも「戦争に勝つまでの辛抱」と、児童ながら先生の言われる通りに必死に耐え、がんばってきたのである。
 子たちは親や家族と離れて、はじめて親や家庭のありがたさを知った。母が恋しく誰にも知られぬようにふとんをかぶって泣いた。 親たちにあえる日を待ちこがれながら、がまんの日々を過ごしていた。
 この疎開中に都市爆撃(空襲)をうけ、家もろとも親家族を一挙に失った子どもたちが続出した。戦争中の大人は、孤児にたいして「君たちの親の死は、国難に殉じた尊い死である。親の仇を必ず討て。米英鬼畜をやっつけろ!」と叱咤、激励されてきた。

国民学校世代の敗戦後の生活
 昭和20年8月15日、日本は無条件降伏になった。勝と信じていた戦争が負けたのだ。疎開していた児童たちも親もとへ引き取られていったが、だれも迎えにこない孤児たちが大勢いた。
 敗戦後、大人はたちまち豹変した。あれほど皇国民教育を子どもの柔らかい心に叩き込んだ大人から「この戦争は間違っていました」といわれ、これまで使用してきた教科書を、墨て真っ黒に塗りつぶしていく作業から、戦後の教育がはじまった。「これからは民主主義の世の中になったのです」と、大人は平然と時勢に併合していった。子どもは心に植え付けられた軍国教育を大人のように簡単に処理できない。まだ親が生きている子どもは元の生活に戻れたからよかったが、親も家も失った孤児たちは、なんのために親が殺されたのか。大人に裏切られ、大人に騙された。という気持ちを強く持つようになった。

逃げ出す孤児
 第四章で親戚、知人へ預けられた孤児について書いてきたが、生活困難だった親戚から追い出されたり、知人、養子宅の虐待に耐えかね逃げ出すの子が多くいた。消息不明の親を探すために東京へきて浮浪児になる子もあった。家出するのは、2日後、3ヶ月後、1年後、2年後、5年後と様々であった。また男児が多く、捕まえても捕まえても浮浪児は減らず、増えていく一方だった。

上野駅地下道での生活
 冬は凍死する子が多かった。餓死していく子が続出した。自分の目の前で、餓死、凍死、変死(殴る)、衰弱死(病)、中毒死(腐り物)、自殺と死んでいく仲間を見てきた。明日は自分も死ぬかもしれなかった。一筋の光さえなく、暗闇の世界だった。
 浮浪児の意識調査によると「将来の希望はの問いに大半が絶望」と答えているのである。(S21年11月22日、朝日新聞)
 誰が好きで浮浪児になるだろうか。親が生きていたら浮浪児にならなかった。

養子にだされた子は「親も家もある」とされた
 浮浪児の中に「家も親もある子が、地方から家出して浮浪児になる」という孤児資料がかなりある。10歳前後の小学生が、焼け野原になった東京へ、寝るところもない。食べ物がない所へ家出してくるだろうか。小学生は働くこともできない、まだ親から離れられない保護が必要な年代である。実親も家もあり、食べ物、寝る所もある小学生が、土地勘の全くない、見知らぬ遠方へ逃げてくるだろうか。とても考えにくい。
 私の孤児調査で孤児の半数以上が養子、養女の話を持ちかけられている。私も二度養女の話があった。一件は遠縁の子の無い家庭で、おじが断ったが、私のかわりに貰われていった女の子は、養祖父母、養父母の看病にあけくれ、結婚したのは40歳すぎてからだった。もう片方は他人なのでその後どうなったか知らない。私が養女になっていたら現在の私はなかった。
○ Sさん(男11歳小5)は養子に出されたが、そこでの2年あまりの生活は、奴隷の生活。学校へはいかせず、働かされた金を巻き上げ、愛情のカケラもなくこき使わる生活だった。さらに養父から「盗みをしてこい」しいわれ、巷をさまよっているとき、刈り込みで捕まった。施設には養親が「うちの子です」と引き取りにくる。嫌がる子を無理矢理連れて帰る姿を見て恐怖で震えた。養子先に二度と戻りたくない。「盗みをしろ。といわれるから、どうか施設に入れてください」と、職員に必死になって懇願して、施設においてもらったのだ。
* 国は養子にだすことを奨励していた。疎開中の引き取り人のない孤児はすべて養子にだしたのである。親戚からも養子にだされた子はいた。いったい何万人を養子にだしたのか。国は養子にだした子は「家も親もある」としたのである。
 浮浪児の中に「家や親もある子」は養子に出された孤児に間違いないと思っている。

誰が浮浪児にさせたのか
 孤児たちは生きるために何でもした。残飯あさり、物乞い、靴磨き、新聞売りなど。靴磨きも靴を磨く道具の入った箱を盗まれるから、道具箱を枕にして寝た。新聞売り、闇売りの手伝いなど、大人に利用された。大人は10歳前後の子どもを騙すなどたやすかった。大人はあらゆる面で子どもを利用し搾取した。大人を信じられなくなった。自ら生きるために、スリ、かっぱらい、窃盗など、目つきも鋭くなっていった。
 間違った戦争を起こしたのは誰か。なぜ親は殺されたのか。あの国民学校の軍国教育は何だったのか。すべて国のために我慢してきた自分の将来を奪ったのは誰か。
 孤児は親から棄てられたのでない。親への思慕は強烈だった。自宅の焼け跡から拾ってきた茶碗のカケラを親の形見として宝物にしている。親の仇を大人社会にむけたのだろうか。施設長が「この児童群のように奔放、無頼な少年群に接したのは初めてである。彼等は従来の児童問題と異質だ」と驚愕するのも無理なかった。