民間施設
○ 愛隣少年寮護院(世田谷区)石川敬一氏経営
 「児童療養所を経営していたが、敗戦と同時に戦争孤児の収容所になった。刈り込みで捕まえられた浮浪児が、何の前触れもなく、トラックに乗せられ、どっと送り込まれてきた。約80人〜100人は常時いるのだ。たださえ貧しい施設に、これだけの人数の闇米など買えるはずがない。人間の生活でないのだ。栄養失調だった孤児たちが次々に死んでいく。その遺体を大学へ売って(研究用)、生きている子の食料の足しにするのだった。悲しく、やりきれなかった」(愛隣の職員だった西村滋氏文より)
○ 希望の家 (葛飾区)福島政一氏経営
 「母子授産所だったが、都民生局の役人がトラックで20数人の浮浪児をつれて、突然やってきた。他に行き場所がなかったようだ。栄養失調で声はガラガラ。皮膚病にやられシラミだらけ。大人を警戒する目。その日から戦災孤児を育てる事業が始まった。国からの援助、補助は一切なかった。先祖代々の土地、銭湯、家財も売って子どもたちに食べさせた。他の施設ではコン棒が当たり前だったが、愛情こめて育てた。6畳二間の貧弱な部屋でも、子どもたちが、『ぜいたくはいらない。旨いものはいらない』といってくれたのが何よりうれしかった」(福島政一氏談)
○ 愛児の家  石綿さだよ氏経営
 「1945年9月、主婦だった石綿さんが、あふれた浮浪児を見かねて孤児施設をつくった。自宅の家屋敷を開放し、私財を投じ、47年には107名になった。食料が底をついたときもあった。高価な着物や道具も売り尽くした。他の施設で逃亡をくり返していた子が、高校へ入ったり、職業を身につけさせることを考えたり、愛情もって育てたので、皆、逃げずに、実家だと思ってくれているのが誇りだ」(さだよさんの三女裕さん談)
○ 少年ハウス (足立区)河村契全氏経営
 足立区で昭和21年10月からバラック建築をはじめた。そこへ浮浪児7人が「おじさん泊めてくれよ」と尋ねてきた。相当の悪童だった浮浪児が次々に集まるようになり、芋かゆをすすりながら小学校へ通わせ、子たちに笑顔が戻った。(S23年4月24日毎日)
* 私立の養護施設は愛情をもって養育したので、子どもたちは逃げ出さなかった。