官公立施設
 東京都の敗戦直後の都養護施設は、戦前からあった既存の「東京都養育院しかなかった。都養育院は板橋(東京)、栃木分院(栃木)、安房分院(千葉)の3カ所だった。
東京都養育院
 安房分院「東京都養育院安房分院に居る5歳〜16歳までの戦災孤児140名につき、矢崎館山 保健所長の調査結果によると、次の如き状態が現れている。
 栄養状態 甲3。乙20。丙61。丁56。 歩行困難21。むくみ4。不活発47。表情なし44。無表情4。疾病はトラホーム90。疥癬79人。必要な給食代は最低一人105円を要するものが、現在の予算によると、一食36銭以上出せないことになっているので、栄養失調は当然といわねばならない」(「養護施設30年」より。最後に添付)
 栃木分院「昭和19年7月に開設。昭和20年には食肉配給がなきため316名が死亡した」(「東京都養育院60年史」より)
 板橋養育院 板橋養育院は浮浪児の一時保護所になった。次々に浮浪児が送り込まれてくる。Mさん(男12歳、小6)は、浮浪児狩りでここへ送られてきたが、廊下にまで死体がごろごろ転がっているのを目撃、「いずれ自分もあのような姿になる」と、鉄条網をはりめぐらされていた塀を乗り越え、夢中で逃げた。
* 都は恐ろしいほど孤児に予算をつけていなかった、と言えるだろう。これでは元気な子が脱走するのも無理がない。

一時保護所、鑑別所(公立)
 国は、昭和21年4月「浮浪児の発見と収容」する通牒を出し、強制収容が本格化したため、「刈り込み」によつて捕まえた孤児たちを収容する一時保護所や収容所を急ごしらえした。東京都は10カ所に設置、840名を収容いた。(「東京都戦災誌」より)
 どの施設も浮浪児が逃げ出さないようハダカにして、鉄格子などのオリの中にとじこめた。あの写真を見たとき、子等の暗い表情に涙があふれた。猿よりひどい扱いだ。厚生省公認のコン棒による体罰、冬でも冷たいホースの水を浴びせるなどは日常的に行われた。さらに、貧弱な食事、劣悪な環境に、脱走する子が多くいた。

 「戦災孤児」を編集した日本戦災遺族会では、下記のように述べている。
 昭和22年12月より厚生省が「全国孤児一斉調査」に乗りだすことになった。この結果、123.511人の孤児のいたことが判明した。その内、8歳〜20歳(数え年)が全体の90%を占めているのが大きな特色といえる。このことは最大の問題である浮浪児と深くかかわっているのである。孤児収容施設の絶対数が少なく、収容施設は、孤児全数の10%にすぎなかった。
 昭和23年4月に児童福祉法ができたが、浮浪児は減るどころが増える一方で、国は、 23年9月に「浮浪児根絶緊急対策要綱」が閣議決定され、取り締まりを強化した。浮浪児は戦争の犠牲者であり、厳重な取り締まりばかりが根絶の方策ではない。暖かい救援の手を差し伸べることによって、初めて成就するのである
 「この子たちに罪があるのか、温かい手ではなく、冷酷、無慈悲な手だった。