4.孤児施設

敗戦前後

 空襲直後から行き先のなくなった孤児が浮浪児になった。さらに学童疎開終了後に浮浪児になった子どもが巷にあふれた。ゴミ箱をあさっても、リンゴの芯とか、魚の骨しかなかった。それも大人の浮浪者に奪われ、小さい子ほど先に死んでいった。
 浮浪児は大勢が集まる駅周辺などにたむろし、ボロボロの垢まみれの姿をした孤児たちは「おじさん何か食べ物を恵んで」と真っ黒な手を差し出し、いくばくかの食べ物をねだるのである。それだけでは腹の足しにならなかった。
 寺の坊さんが一時的に孤児を収容したが、何しろ食べさせる物がない。毎日、孤児たちは死んでいく。また一人死んだ、たまりかねた坊さんは「盗みでも何でもして生きぬけ」と孤児たちを放ったという。
 上野駅地下道は足の踏み場もないほど浮浪児であふれた。地下道のコンクリートの上にごろ寝する。食べ物はない。モク(タバコの吸い殻)拾い、新聞売り、闇屋の手伝い、何でもしたが、大方は大人に利用された。10歳前後の子どもを騙すなどたやすいことだった。孤児は生きるために、スリ、かっぱらい、窃盗などするようになる。捕まると大人からコン棒でメチャクチャに殴られた。

浮浪児狩りと脱走
 アメリカ占領軍(GHQ)から「汚いから浮浪児を一掃せよ」と命じられた厚生省は、昭和21年4月「浮浪児の発見と収容」する通牒を出し、強制収容が本格化する。
 まず浮浪児を捕まえ一匹、二匹といって、トラックに2、30人をのせ、民間の孤児施設に送りこむ。予告なしだった。「こんなに大勢一度に連れてこられては困る。前もっていってくれ」というと「前にいうと全部ことわられるから」と職員はいうのであった。
 強制収容にともない急ごしらえの一時保護所や、児童保護収容所を各市につくったが、それでも収容施設は少ない。トラックに乗せ山奥へ棄てたられた孤児もいた。
 収容施設は劣悪な環境だった。食べ物の少なさ、教護と称する体罰など、犯罪者扱いにされ、逃げ出さないようにハダカにして、鉄格子の中に閉じ込めた。これは東京はじめ神戸、大阪も同じであった。何しろ逃げ出し浮浪児になっては、困るのであった。

○ 葵寮 (静岡県)
 浜松市三方原元海軍将校集会所を改造、県の委託で開所した収容所である。所長には不良扱いになれた山内一郎氏。監禁室、軟禁室、解放室の3つを作り、その監禁室は10畳で、便所つき、一室に15人ぐらいが同居、鉄窓とカギで脱走は絶対不可能。おとなしくなると軟禁室に移し、作業に熱心なものだけは解放室に入れるが、この間、約2ヶ月がかかる。苦しさで、解放室に入ったとたん逃げ出してしまう者が多くいた。
 参議院では3月17日、厚生委員の井上なつえ氏ら6氏が「人権ジュウリンだ」と現地に談じこみ。同25日、厚生省が関係者を招いて検討したが、「これ以外に策なし」と結論、監視室存続の方針が決まった。(昭和23年4月8日、朝日新聞)
 お台場でオリの中に入れられた孤児写真がある。(昭和21年7月、毎日新聞)

初期の孤児施設
 昭和21(1946)年12月10日現在、同胞援護会の調査によると、全国の孤児施設は、官公立38(内、東京5)、同胞援護会9(内、東京1)私立212(東京41)となっている。全国収容人数合計、7、615名であった。東京の収容数は、792名。(「社会事業、復刊」養護施設30年より。この統計資料は最後のページに添付した)
 全国で浮浪児3.5万人(朝日年間)いたといわれる浮浪児を収容する施設の絶対数が足りなかった。国は「社会事業にまかせておる」というが、民間の社会事業(同胞援護会)がこれほどの大勢の孤児を、保護収容できるはずがなかった。現に東京都には同胞援護会の施設は1カ所しかない。官公立施設は戦後1年4ヶ月経過しても、たったの5施設であった。それもGHQからいわれて急造した劣悪な施設である。民間の篤志家が私材を投げ出し造った施設は41もあった。民間人が孤児たちを救ってくれたというべきだろう。