8.児童福祉法

 昭和23(1948)年4月より「児童福祉法」が施行され、国家予算で、ようやく児童福祉施設などができ、児童が保護されるようになった。戦後3年も経過していた。
 しかし、この児童福祉法は、母子家庭の子、障害児など、広汎な児童を対象にした法律で、戦争孤児を救済するものでなかった。届け出る保護者のない孤児(親戚へ預けられた孤児や、浮浪児)は救済されなかった。
 4月に児童保護法かできたにも関わらず、23年9月には「浮浪児根絶緊急対策要綱」が閣議決定され、取り締まりを強化した。

○ 東京観護所 (杉並区)
 「1949(S24)年2月24日夕方、東京観護所に収容されている浮浪児が放火して逃げ出した。収容児童141名の内、84名がハダシで脱走。捕まったのはわずか13名だった。定員50名の所へ140名を収容、すし詰めの状態で、さらに逃げ出さないよう房内に閉じ込め、遊びも、間食も与えない、警察の留置所と同じ扱いに不満をつのらせていた」(1949年2月26日、朝日新聞)。浮浪児を収容した施設はどこでも似たような処遇だった。抗議する手段をもっていない子が、大人により地獄におとされたのだ。

○ 浮浪児になった原因
 浮浪児になった原因は、官僚が学童疎開中の孤児資料を陰ぺいしたこと。さらに国の初期における戦争孤児の救済措置をしなかったこと。それが原因である。
 戦災史実調査報告書、「戦災孤児」においても、遺族会は「戦争孤児に対する救済措置は、国、国民の責務といえ、満足のいく孤児対策をたてることができなかった」と述べているのである。子を護ってくれると信じて死んだ親は、国を恨んでいるだろう。 日本の恥ではないだろうか。

その他の孤児たち
 浮浪児体験者だけでなく、戦争孤児は世間から偏見、差別、蔑視をうけてきた。以前、大泉寺住職から、Yさん(男、当時10歳、小4)のことで電話をいただいたことがある。
「Yは金田さんの本を読んで一晩中泣き明かしたといって、腫れた目で尋ねてきたのです。そして泣きながら話をしてくれました。勤務先では、孤児だ、施設出身だといわれ、ひどい虐め、差別を受けてきたこと。物がなくなれはお前が盗ったといわれ、先輩のいじめ、後輩からも蔑視され、昇級もなく、万年平社員だったそうです。Yはまじめで、努力家で、それは優しい良い子なのですよ。驚きました。こんな非道い虐めにあっていたとは」と。
 Yさんは大泉寺孤児寮から小山学寮に移り。15歳で中学を卒業、寮にはいり会社勤務をしていた。住職はYさんの結婚式に親代わりになって出席、Yさんとは長い交流をつづけているという。

 施設に中学卒業までいたとしても、15歳で社会へ出され、世間の荒波の中で、たった一人で生きねばならなかった。孤児は、1、精神的苦痛(親きょうだの死、家族のきずながない)。2、経済的苦痛(家、財産の喪失、住むところがない)。3、社会的苦痛(いじめ、差別、偏見)などの苦を背負い、生きねばならない過酷な人生だった。