一般孤児について

 統計表では一般孤児8万1千人もいた。これは重要な問題なので、もう一度考えてみたい。一般孤児とは厚生省によると、戦災孤児、引揚孤児、棄迷児、以外の孤児をまとめて一般孤児だという。すると一般孤児の中に、両親の病死と、両親の行方不明の孤児が入ることになる。なぜ両親の病死と、親の行方不明とに分けなかったのか。わざとまぎらわしく、戦災孤児と思わせないように工夫したのかもしれない。
○ 両親の病死
 学童疎開の年代(7歳〜12歳)の親の年代は、大体30歳〜40歳である。子育て真っ盛り、働き盛りの年代で50歳以上の体力が衰えてきた年代ではない。片親ならともかく両親とも病死する確率は少ないはずである。8万人が病死で孤児になるとは考えにくい。

 病死は死が確定しているから、病死と行方不明の項目を分けて設けるべきであった。
○ 親の行方不明
 現在、東日本大震災で1ヶ月がすぎ、必死の捜索にかかわらず、半数の1万5千人以上が行方不明になっている。津波で海へ流されたり、土に埋まったり、家もろとも燃え尽きたりしたのかもしれない。これも空襲のときとそっくり同じであった。

 3月10日の東京大空襲は、アメリカの住民皆殺し作戦だった。関東大震災のときの模型までつくり、風の向き、火の燃え方まで徹底的に研究し、都市の人員密集地帯を狙い市民の大虐殺を行った。それは最近、解禁されたアメリカの資料から、軍事施設を狙ったのではなく、市民を標的にした事実が、明らかになったのである。(空襲研究者の中山伊佐男さんが、執念でアメリカの資料から突き止め明らかにされた)
 市民は避難先に指定されていたコンクリート造りの学校や、広大な公園へ逃げても、容赦しない焼夷弾が雨のように降り注ぎ、たちまち火の海になって逃げ場を失い、火だるまになって死んでいった。黒焦げになった死体が佃煮のようになり山になったのである。
 都内小学校の罹災は、675校の内、非戦災残存336校 全焼262校 大破77校。となっている(「東京都戦災誌」より)。都内小学校のうち、半数の339校、主に下町の学校が空襲で焼失している。下町の小学校は、関東大震災のとき木造校舎が燃え尽きたため、その後、鉄骨コンクリート造りになり安全な場所として市民の避難先になっていた。
 書家の井上有一氏は次のように述べている(抜粋)
 「横川国民学校 避難民一千有余 猛火包囲 鉄窓一挙破壊 忽ち火の海と化す 全員一千折り重なり焼き殺される 白骨死体如火葬場 悲惨極此 ああ何故あって無辜を殺すのか 翌11日トラック来り一千死体トラックへ投げ上げる 我倉庫内にて奇跡生残」
 各学校へ避難していた人々は同じように白骨になり、軍隊のトラックでどこかへ運ばれていった(海に投げこまれたようだ)。
 その他、各所に山積みされた形のある遺体は公園などに10万人以上も埋められた。熱さに耐えかね川へ飛び込んだ人は、川の面も見えないほどの溺死体、凍死体があふれ、海に流されていった。こうして遺体がなく行方不明になってしまった。3月10日の空襲では遺体のない者8割もいる。一般孤児の多数は、親の行方不明であり、戦災孤児でありながら、一般孤児にされてしまった。(空襲は第二、三章を参照されたい)