B 学童疎開していた子
 戦争中、都市に住む小学生は国策によって疎開し、親元をはなれていた。その疎開中に都市に住む親家族が空襲で焼死し、孤児が続出した。敗戦後から親たちが疎開児童を引き取りにきた。疎開中に孤児になったものも親戚へ引き取らせた。親戚が引き取りにこない孤児は疎開終了まで疎開地に残っていた。学童疎開終了は昭和20(1945)年10月〜11月であった。
  都区内復帰輸送計画・国民学校児童数調(1945年10月10日調)東京都
 集団疎開児童94.402人 縁故疎開児童108.582人 合計202.984人が学童疎開終了にともない都の用意した臨時列車に乗り東京へ帰った。これで一応、学童疎開は終了しのである。

◆ 疎開児童と一緒に帰京した孤児
 地方に住んでいた児童は空襲被害のうわさは聞いていても実感がわかなかった。両親はじめ家族全員が死んだとは、どうしても信じられなかった。孤児は「どうしても東京へ戻りたい。この目で確かめたい」という切実な気持ちが強く、疎開児童と一緒に帰京した子も多くいた。
 東京は想像を絶する見渡す限りの焼け野原になっていた。上野駅に出迎えの親はいなかった。親とだきあって喜ぶ友だちの姿に背を向け、焼け野原をぼうぜんと眺め、恐怖、不安に打ちのめされた。悲しみで身体の芯まで凍りつくようだった。
○ ある先生が孤児を連れ杉並の親戚宅へいくと、大きなお屋敷で裕福そうだったが、 「いやな顔をされ断わられた」という。
○ おじが迎えにきたが「女房が反対するので困った。こまった」と、くりかえしていた。
○ Iさんの親友が孤児になったが、一緒に帰京した。Iさんの父親が引き取り先を探したが、どこも労働力として利用しようというところばかりだった。

 親、家を失った子どもの行く先はさまざまであった。約1割が心に悲しみを抱えながらも、祖父母が可愛がってくれたり、兄、姉が面倒みてくれたり、信心深いおじ夫婦に助けられたりして、なんとか普通の生活がおくれた。
 しかし、9割が親戚やその他から、嫌がらせや、差別、虐待をうけ辛酸をなめてきた。(親戚における孤児たちの状態は、第四章に詳述してあるので参照されたい)
○ 佐江衆一氏文(作家、昭和55年8月7日、東京新聞より抜粋)
 「Aさんは学童疎開した半年後に、東京大空襲で両親兄弟のすべてが死んだ。敗戦の冬、 最後まで残された友人と教師に引率されて焼け野原の東京にもどる。行くところはなかった。遠縁を尋ねてみたが、冷たくあしらわれ、2日いただけでその家をでる。まだ小学5年生だった。
 上野駅にもどり、地下道をねぐらとする。残飯をあさり、闇市のものを盗み、モク拾いをし、やがて進駐軍兵士やパンスケ相手に靴磨きをした。幾度も刈り込みで捕まえられるが、その都度逃げ出して上野の地下道にもどった。小学校も卒業できなかった。
 30歳になってやっと夜間中学を卒業した。 Aさんは学童集団疎開よりもはるかに、その後の戦災孤児としての体験のほうが、つらく苦しく、骨のズイまでしみこんでいる」

◆ 三多摩の孤児学寮に収容された孤児
 東京都教育局長は20年10月24日「戦災孤児等ノ学寮設置ニ関スル件」を通牒。
 それによると「三多摩に8学寮(寺)を設置、引き取り手のない孤児345名。大泉寺51名、福生寺41名、金剛寺64名、東光寺69名、大円寺40名、蓮華寺40名、梅若寺25名、南養寺40名、計345名を保護養育した」となっていたが、私がその8学寮を調査した結果、統廃合をくりかえし、最終的には小山学寮一つになり、81名しか養育していなかったことが判明した。ほとんど養子にだしたらしい。小山学寮は昭和25年から国の直管になったが、それまでは、わずかの補助金で悪戦苦闘していた。(第一章に詳述してあるので参照されたい)

 ◆ 残留した児童の生活
 学童疎開が終了しても引き取り人がないため東京へ戻れない児童がいた。現地に残留した児童17、051人であった(復帰輸送計画より)。大半が親の消息不明の子であった。残留した所は、岩手、秋田、宮城、新潟、長野、埼玉など。3月10日に空襲被害のあった東京下町の子どもたちが主だった。
 残留児童の住居は、疎開児童の学寮であった寺に孤児たちが集められ生活した。ここでの生活は、国や都からの援助がなく貧窮の極みであった。(多くの証言がある)
 東北の雪国は氷点下以下になる。この寒さに着るものがなく震え、子ども同士の食べ物の奪い合い、過酷すぎる凄惨な生活がつづいた。さらに次々に養子に出された。
○ 台さん(女11歳)は「一日もここにいたくありません。おじさん、むりですけど、どうか、どうか迎えにきてください」と血を吐くようなハガキをおじに送った。迎えにきたおじは、「2.3日中に死ぬかもしれない」と思ったほどやつれきっていたそうだ。
 台さんにも養女の話はあった。
○ 引率教師だった塩原先生は「親の消息がつかめない子や一家全滅の子が取り残されました。周囲からの助けがなく、大海にただよう難破船に乗っているようでした。やがて子どもたちはどこかへ飛ばされる(養子にだされる)と、戦々恐々となり、不安におびえ、息づづまるような生活の連続でした」(「嵐の中のおんな先生」より)

* 孤児たちは家がなくてもよいから、生まれ育った東京へ戻りたかった。望郷の念は強烈だった。しかし学校側では養子を推奨していたから、否応なく養子に出された。養子にだすのが国の方針であったのである。
 地元の農家、その他から「子どもを貰い受けたい」といってくる人は大勢いた。当時の農家は人手不足だった。食べ物がないため人々が列をなして農家に買いくる。いくら作っても足りない。そのため増産しなければならない。現在と違い当時の農家は手作業が多く重労働だった。子どもを働かせるために養子にするのである。
 また人身売買された子もいた。一人でも早く孤児を減らしたい先生は、相手の調査もせず養子に出した。その先生を一生恨んでいる孤児もいる。
 この残留児童は昭和21年3月に帰京したことになっているが、何名が帰京し、何名を養子にだしたか、その記録がまったく無い。

◆ 養子に出された子

 8歳以上は教育学的に養子は適さないといわれている。小学生以上は親のしぐさ、声の調子、すべてを鮮明に覚えている。親と離れて暮らしていた疎開生活では、東京の空へ向かい「おかあさんー」と呼び、実親が忘れられない。養子に出された子は、現在も実親を強く慕い、墓もなく追悼する場所のないことに苦しんでいる。
 養子も良いところへ行った子はわずかでしかなかった。
○ Yさん(女10歳、小4) 養子先では、学校へは行かせず、子守り、女中、畑仕事で働きずくめ、そしてそこの主人から「もっと大きいのを貰ってくればよかった」といわれた。
○ Sさん(女9歳小3) 学校で必要な金をくれなかった。毎日叱責の嵐で、中学卒業後は、働いた給料ぜんぶ取り上げられた。養女時代の生活は悲惨そのもので、結婚してからも「子どもは欲しくなかった」という。子ども時代、壮絶な生活をしてきた人ほど、子どもに自分の姿を重ね恐怖を覚えるらしい。私の知っている人に養子に出された2人(男)も「子どもが欲しくなかった」というのは、その精神的苦痛がいかに深く、尾を引いているかがわかる。
○ Kさん(男9歳小3)は農家に養子にだされ、馬小屋に寝かされた。牛、馬のように働かせ、土間で食事をする。仕事が遅いと殴る蹴る、暴言をうけ、夜は体中が痛み眠れない日々だった。もちろん学校へ行かず、早朝から夜まで重労働をさせられた。とうとうたまらなくなって逃げだし、浮浪児になった。

* その他、売られた子もいれば、売春婦にされた子もいた。

国は孤児を放置
 国、厚生省は戦争孤児にたいして国家予算をつけず放置してきたのである。当時の厚生省社会局長であった葛西喜資氏は「終戦の直後になってみると、もうほとんど子どものことなどというものは問題にもならなかった」「あのどさくさに会社は全部閉鎖してしまう。それから吐き出す失業者は非常に多い。外地からの引揚者が600万人も帰ってくる。それから食うに困る者はうんとできるし、軍人の遺家族なんというものを特別に扱わなければならない。戦災者という非常におおきなグループができてしまったし、そんなことで全くてんやわんやの状態(中略)だから児童保護どころじゃない」と述べているのである。(出典先「東京都教育史、通史編4」東京教育研究所)

 国は軍人の遺家族には特別扱いしたが、戦争孤児を救済する措置はなかった。子どもは1ヶ月も2ヶ月も放置されれば死を待つしかない。一刻の猶予もなかったはずだが。

浮浪児の発生
 空襲直後から浮浪児になった子もいれば、敗戦後の疎開終了から浮浪児になった子も大勢いた。食べさせてくれた親がない、寝る所もない。生活の基盤をなくし、保護者もなく、野良犬と同じになってしまった。働くこともできない児童、訴える術もしらない子たちが、どうして生きていけばよいのか。「これほど苦しむのなら親と一緒に死んでいればよかった」「絶望だけの日々」だった。幼い子、弱い子ほど先に死んでいった。