親戚や知人宅へ預けられた孤児証言

* 谷川珠江さん、女、7歳(小1)
 私は東京の江戸川区に母と妹(1歳)弟(5歳)私(7歳)姉(8歳)、母方の祖父母の7人で住んでいた(父は戦死)。3月10日の空襲で痛風で伏せていた祖父を残して逃げたが、母が「おじいちゃんを助けてくる」といって引き返し、母と背中におぶっていた妹と祖父の3人が焼死した。遺体はみつかったが、すぐに片付けられ遺体も遺骨もない。
 残された私たち4人は住むところがなく埼玉のお堂に住んだが、食べ物がない。私と弟は父方の祖父の所へ引き取られた。復員してきた叔父は酒びたりで、食事も水ばかりのぞうすいなど、いつもお腹が空いていた。学校でも教科書が買えず、給食費も払えず、垢まみれの汚い服で、学校や近所の子に「汚い」「臭い」「親なし子」「乞食」とよばれ、いじめられ通しになった。
 小学3年(9歳)のとき、叔母に連れて行かれた家で、真っ白なごはんとおかずのご馳走が出された。私は目をまるくして夢中で食べた。周りを見ると昼間だというのに働きもせず、きれいな着物や洋服を着た若いおねえさんが数人いた。濃い化粧をしていた。「ここで働くように」と叔母からいわれ、祖父にその話をすると、「そこは売春宿だ。絶対、行っちゃダメだ」といわれた。私はもう少しで売春宿へ売られるところだったのだ。
 その後、「学校へ行かせる」という条件で、今度は千葉の農家へ行かされた。その農家には1歳から4歳まで年子の幼児が4人もいた。地元の学校へ通いはじめたが、3人の幼児を連れての通学だった。10歳の私、背丈は大人の半分しかない。背中に2歳の子をくくりつけ、右手に3歳の子、左手に4歳の子を連れて行くのである。
 教室に入っても背中の子はギャーギャー泣きわめく。3歳と4歳の子は教室中を走り回る。おしっこは垂れ流す。「クソしたい」といって騒ぐ。火がついたように泣きわめく幼児3人、みんなからののしられ嫌な顔をされるので学校は辞めた。「学校へは行かせる」とは口実で、最初から労働力として私をあずかったのだった。
 朝4時に叩き起こされる。まず草刈り、馬、牛、豚、ニワトリの動物に食べさせるための草を山のように刈り、カイバ切りをする(ワラをざくざく切る作業、重労働)。カイバと草をまぜて動物に食べさせてから朝食。それから畑仕事、糞尿運び、田植えなどの農作業、雨がふっても「畑仕事してこい」と外へ出された。背中に雨が降り注ぐ。雨がやむと農家の主人が見に来て「何していたんだ。これだけしかできてない」と厳しく叱責された。
 夕食まで野良で働き、夕食後は4人の幼児の世話、夜中も幼児に何回も起こされた。私の自由になる時間はトイレへいくときだけだった。野良仕事の休みは1月1日の年1回だけ、休みでも幼児の世話はあった。6年間、無給で下着1枚買うことができず、汚い野良着で過ごした。15歳ごろ、このままでは使い棄てになる。将来は絶望だったので、ここから抜け出さねばと真剣に考えるようになった。祖父がはじめて千葉へきてくれたので、祖父に頼んで女中を紹介してもらった。そこで、はじめて給金を貰った。
 長いあいだ重労働をしたせいか、10本の指先の関節がぜんぶ曲がり硬直している。他人にはみせられない変形した10本の指と、学歴のなさは生涯、劣等感の塊になった。
 (女中=差別用語、現在は使われていない。底辺の人が働くため差別されてきた)

* 金田茉莉、9歳(小3)
 私は昭和20年3月9日、宮城県の集団疎開先から夜行列車に乗り10日朝、上野へ着いた。東京は一面の焼け野原、廃墟になっていた。炭のように黒こげになった遺体があちこちに転がり、たった一夜にして東京下町一帯は、死骸の街になっていた。
 私の家族は母と姉と妹の4人(父は病死)家族、3人がこの空襲で死亡し、私はたった一人残された。小学3年生9歳だった。それから親戚を回され各地を転々とする。おばから「この子は一日早く帰って親と一緒に死んでいてくれたらよかったのに」といわれた。この年は1年間に4回も学校を替わり、最後に行ったところは姫路の伯父宅だった。
 この家には子どもが7人いた。私がこの家へきてから伯父と伯母がケンカをする。「なんでうちがこの子を預からんといけんのや。うちはぎょうさん子がおって、食べさせるだけでも大変なんや。この食糧難のおりに」とおばがいう。末っ子の6歳のいとこから、「お前なんかいらん。早ういんでけえ(出ていけ)」といわれ白い目で睨まれた。長男のいとこから「お前は親戚中から棄てられたんだよ。お前のような親なし子をが誰が面倒みてくれるんだ。お前は野良犬だ」といわれた。私は逃げて帰るところはなかった。
 学校へ提出する書類には「同居人」。先生が「子どもの同居人って聞いたことがない。保護者はだれなの」といわれた。私を他所へ出すつもりだったのかもしれない。そのうち長男からささいなことでよく殴られた。ある日の夜9時すぎ、長男に「子犬を取りに行け」といわれ、すぐに行かないと「ワシのいうことが聞けんのか」と、頬を両手で激しく叩かれた。私は死のうと思い家をでた。誰もいない真っ暗い河原へきて「あの家へ帰りたくない。お母さんのところへ早く逝きたい。なぜ、私ひとりをおいていったの」と泣きじゃくっているところを、近所の人に見つかり、保護されたこともあった。
 そのころ、あんちゃん(元私宅の使用人)が復員して私を訪ねてきた。「本当にマリちゃんなの」と驚きの声を上げた。私の人相はすっかり変わっていたのである。どんよりした目は「サカナが腐ったような目で気味悪い」といわれ、笑えない子になっていた。いとこから虐められているのをみて「どうしてこんなことに」とあんちゃんは泣いていた。
 私は朝早くたたき起こされ、10人分の食事支度をする。当時は電化製品などなかった時代だから、ポンプで水を汲み、マキでごはんを炊く重労働だった。朝食が出来上がった頃、家の人たちがぞろぞろ起きてくる。皆が食事をしている間に全員のふとんを片づけ、そうじ、茶碗の後かたづけをしてから学校へ行く。髪をとかすひまもない忙しさだった。学校から帰ってもフロたき、食事の支度、何から何までの家事労働を夜までやった。私はこの家の家族ではなく、よその子であり、ただの労働力にすぎなかった。
 中学2年のとき病気になった。医者にはかからなかった(後にレントゲンで結核だったとことが判明した)。私は身体が辛く10分でも横になりたかった。家の人は皆、朝はねているから、私が息をするのも苦しく地面を這うようにして働いているのを知らなかったと思う。仕事がはかどらないと、いとこの長女の姉に「横着者、怠け者」とはげしく罵倒された。毎日受ける暴声にふらふらになりながら働く。無理に働けば倒れて死ぬだろう。「早く死なせてください。私を楽にしてください」と毎晩祈っていた。こんな状態が約1年つづいた。医者にもいかず、薬も飲まず、よく今日まで生きてこられたと思う。
 親戚では遠慮ばかり。心を殺し、自分自身を捨て、ただ耐えるのみの生活だった。