実兄に殺された孤児

* 岸本まき子さん、10歳(小4)
 昭和21(1946)年3月。世間に激震が走った。片岡仁左右衛門一家五人が、ナタで惨殺された事件があった。連日、新聞に報道され、「食糧難と犯罪」とか「飢餓の殺意」などの記事が躍り「この食料難は、とうとうここまできたのか」と、人々の大きな話題になっていた。私の住む姫路でもこの話でもちきりだった。
 片岡家で女中、子守をしていた岸本まき子さん(当時11歳)も殺された。まき子さんは私と同じ浅草区聖天町の生まれ。学年は一年上だったが、同じく宮城県へ集団疎開している間に両親と弟妹の5人が3月10日の空襲で焼死、まき子さんは孤児になった。私と同じ身の上なので、なぜ殺されたのか気になっていたのである。
 50年後に友人が当時の新聞をもってきてくれ、詳細を知ることができた。
「まき子さんは疎開終了後、父親と長年親交のあった片岡家へ子守、女中として引き取られた。直後に兄も軍事徴用されていた北海道から帰ってきたが、行く所がなく片岡家へ雑用係として置いてもらった。片岡とし子夫人は二人に対して食事の差別がひどく、一日に食事は2回。それも1回はかゆだけ。二人に配給される品物すべてを夫人に取り上げられた(当時はすべての生活用品は配給制で自由に品物が買えない時代だった)。
 兄はとし子夫人の差別に不満を募らせていった。殺すきっかけはまき子さん名義の戦災保険金のことで、兄と片岡家とで口論になり、兄は発作的にナタで5人を惨殺したという。実妹を殺したのは、孤児がこれ以上生きていても、苦労するばかりだと述べている」(逮捕された兄の供述より)
 私はまき子さんの同級生からも話を聞いた。
「マキちゃんの父親は歌舞伎の脚本書きだったの。裕福な家で、天長節などの式典には、振り袖に袴姿(クラスでも数人)で出席、目立った可愛い子だったのよ。それが孤児だからって、まだ小学生なのに女中にされて、こき使われ、、学校へも行けず、食べ物も最低、その上マキちゃんの保険金まで取り上げようとしたのよ。働かせ、利用するため預かったのね。国策で疎開させたのに、国は孤児を養育する責任があったはずよ。私も紙一重の差で孤児になっていたかもしれないと思うと、ひとごとじゃないわ」

◆ 親戚、知人も我が子がいるのに孤児を預かるというのは、一部を除き、大抵は功利的な打算から孤児をあずかったのである。義務教育の小、中学へも行かせてもらえず、働かせ、まるで奴隷のように意のままにされた子は多くいた。孤児は普通の子の数倍働いた。

* あなたが生きていく上で、一番辛いと思ったのは何ですか。の問いに
 1994年、22名アンケート調査より。(複数回答)
イ、遠慮して、自分を抑え、心を殺して生きるのが辛かった。      14名
ロ、差別がひどすぎた。甘える人がなく、愛情をかけてもらえなかった。 9名
ハ、辛いことばかりがつづいた。すべてが辛すぎて特定できない。    7名
ニ、空腹でたまらなく、寝る場所もなく、世間からバカにされたこと。   7名
 辛かったこと、特になし。はたったの2名だった。