4.戦後から戦争がはじまった。

 1945(S20)年8月15日、戦争は終結した。あの命を縮める空襲の恐怖がなくなり、夜はふとんの中でぐっすり眠れるようになった。電灯がパーッとつき明るくなった。何よりバラバラになっていた家族(疎開、軍需工場、兵士など)が帰ってきて、元通りの生活ができるようになったこと。たとえ貧しくとも家族が共に暮らせるようになったのは、どれほど幸せであったことか。
 一般の人々がホッとしていたころ、孤児たちは怖ろしい恐怖に襲われ、それは形容できないほどの不安に怯えていた。どこへも帰るところがなくなっていたのだ。戦後は誰からも見向きもされなくなった。孤児たちは戦後から戦争がはじまったのである。
 「兵隊さんが国や子どもや家族を護るために、戦地で戦っています」と先生から教えられてきた。「マリちゃん、こちらはみんな元気です。お母さんはいつもマリちゃんのことばかり心配しているわ」と東京に住む姉から疎開先に送ってくれた手紙。家族を心の支えに、逢える日を楽しみに、疎開地ですごしていた。兵士や病気なら死を思ったかもしれないが、まさか元気だった家族のすべてを、この戦争で一瞬に失うとは、当時の子どもは誰も考えもしなかっただろう。私もこのような身の上になるとは一度も考えられなかった。
 母たちの死は頭をナタで真二つに割られるような衝撃だった。目が潰れるほど泣いた。ひとりの家族の死でも悲しいのに、全員が死んでしまった。たった一人だけ残されてしまった。この心底に沈殿していた苦しみは、私の一生から離れない。時々あのときの恐怖が現れ、パニックをおこすときがある。
 その悲しみの上に、さらに苛酷な運命が孤児たちを待ち受けていた。これまで述べてきたように、親戚をたらい回しされるようになる。私は母方の親戚からも、引き取りを拒否された。親戚も自分たちのことで精一杯だった。一部を除き、親戚では厄介者扱い。孤児たちは、死か(自殺、衰弱死、病死、餓死など)、または親戚や知人宅で下人として働くか。浮浪児になるしかなかった。
 浮浪児や孤児は、働ける年代になっても、親がいない、家がない、保証人がいない、学歴がないと、就職も断られた。底辺の仕事を懸命に働いてきた。孤児というだけで世間からひどい差別があり、品物が無くなれば疑われたり、結婚も「どこの馬の骨かわからない」といわれたり、バカにされてきた。
 親戚では無料で働かせながら、一生恩にきせるのである。いとこからも恩にきせられ、頭を下げているばかりの人生だった。親のいない惨めさを徹底的に思い知らされた。
 「大人になれば孤児とはいわないのでないか」という人もいるが、「中国残留孤児」に、それにかわる言葉がないのと同じように、「戦争孤児」は、どれほど年を重ねても、孤児というレッテルを張られ、一生ついてまわった。戦争孤児をぬけだせないのである。
 日本は経済大国になり、人々は平和と繁栄を享受し、文化的な生活をおくっていたが、孤児は貧困生活で文化とはほど遠く、孤独の中でひたすら働き、生きてきた。
 生き残った兵士は「生きていてよかった。死んだ戦友に申し訳ない」というが、私は「生は死より辛い」と実感してきたから「生きていてよかった」と、どうしても思えない。あと残り少なくなった人生、せめて最後に生きていてよかったと思うようにしたい。