*「母にささげる鎮魂記」金田茉莉著より 1986(S61)年、小学3年で孤児
 私が高校へ行けたのは、母の遺した貯金があり、その金で伯父が新しい工場を建てたからである(伯父は私が中学のとき死亡)。それを知っていた上杉のおじさんが「高校へ行かせろ」といってくれた。しかし家では学校で必要な金をだしてくれなかった。月謝を長期に滞納して中央廊下に名前がはりだされたこともあった。消えてしまいたいほど恥ずかしい思いをした。お金をくれないので、どれほど苦労したか、隠れて泣き、耐えに耐えていた。いとことの差別がひどく、家ではコマネズミのように働き通し。勉強する時間はなかった。
 私は高校卒業後、友人からの餞別で列車の切符を買い、無一文で東京へでてきた。持ち物は、わずかの下着と母たちの手紙と写真だけが入れてある小さいバッグひとつだけ。
 東京へきても、親も家もなく、ふとん一枚ないため、住み込みの女店員にもなれなかった。ふとんなしでよい誰もいきたがらない女中になるしかなかった。給金は最底で、どれほど節約してもふとんを買う金はたまらない。そこの主人からは性的嫌がらせをうけたが、ある人に話すと「女中だから仕方ない」といわれた。(女中は人間でないのか)。
 次に飲み屋の女中になったが、そこの女将に養女になれ、といわれて断ったら直ちに追い出された。今日寝るところがない。浅草寺の脇で「これからどうしよう」と頭をかかえていると、ヤクザから声をかけられ夢中で走って逃げた。捕まったら売春宿に売り飛ばされてしまう。今日寝る所を探し「女給募集」の張り紙をみて場末の女給になった。
 崖っぷちを歩くような辛酸を重ね、やっとオンボロアパートを借り、これからというとき右目を失明した。眼科の先生から成長期の栄養不足だろうといわれた。頼るのは自分だけ。社会からの差別もひどかった。私が孤児だと知ると、人の態度が変わり、軽蔑のまなざしで見るようになる。対等に付き合うために孤児を隠して生きるようになった。
自分史のこと
 49歳のときだった。胆嚢が破裂寸前になり、「一日手術が遅れていたら命がなかった」といわれ、人生観が変わった。自分史を書いておこうと「母にささげる鎮魂記」を自費出版した(絶版)。これは友人、親戚に配ったので、公表したくないことは、全部省き、私も自分のプライドから、突っ張り、見栄をはって書いてきた。読んだ友人から「親戚に感謝しなさい」といわれ、孤児から「あなたは恵まれていたわわね」といわれた。

* すべてが明らかにならないと、孤児の実態は判明しない
 事実を知らなければ実態が判らない。私も親戚での事実を語りはじめた。とくに10歳前後で焼け跡へ放りだされた孤児たちは、知恵もなく、大人に騙されたり、利用され、売春宿に売られたり、奴隷にされた子もいた。一人では生きられない児童がどれほどの辛酸を舐めてきたか。あの暗い、汚い、屈辱にまみれた記憶は消してしまいたい。思い出したくないのは当然だろう。自分のすべてをさらけ出すのは勇気がいる。
 山田清一郎さん(前出)は、丸橋氏の「語ってくれ」の詩を読み、むしりとられた孤児たちの命、語ることさえできずに死んていった孤児たちのために、命の大切さを訴え、浮浪児の体験を語りはじめた。戦後60年もすぎていた。
 私たちが語らなければ、日本に戦争孤児はいなかったことになってしまう。二度とくり返さないために、平和を願い、ごく一部だが最近ようやく孤児たちが語りはじめた。