5.語りはじめた孤児たち

 心の奥深くにふたをして、今でも語ろうとしない孤児は多くいる。孤児たちがなぜ語れないのか。このホームページ「戦争孤児(日本)」の付録「陳述書」に、イ〜チまで8項目にわたり、「語れない理由」を述べてきたので、それを参照されたい(ここでは省略する)。一言でいえば「心の傷が想像を絶するほど深い」ということである。
 孤児証言は少ないが、その中から拾ってみる。

*「浮浪児の栄光」佐野美津男著より(1983年)小学6年で孤児になる。
 佐野氏は作家であり、大学教授にまでなった人だから「浮浪児の栄光」を書けたと思う。彼は私と同じ列車で、昭和20年3月10日朝、宮城県の集団疎開先から東京へ着き、焼け野原を目撃した。その空襲で両親と姉2人を空襲で失い、孤児になって祖母宅へ引き取られたが、1年後に祖母宅を出て浮浪児になった。祖母への憎しみは激しい。「祖母への憎しみから生きてきた」と。後書きで「くそばばぁ、ざまあみろ」といっている。
 浮浪児が生きるには「残飯を漁るか。物乞いするか。盗むか。」三つの選択肢しかなかった。彼は強い自尊心から乞食の真似はできないと「盗み」を選んだ。盗みが悪とは毛頭思っていなかった。(私も生きるために孤児が盗みをするのを、微塵も悪とは思わない)
 彼は誇り高く、憐れみをかけられるのを極端に嫌った。施設での虐待、祖母や親戚からの虐待を述べれば、「可哀想」と同情され、憐れみをかけられる。憐憫とは対等の立場ではなく、上からの目線で相手を見下し、蔑視することなのである。彼のプライドがそれを許さなかった。世間からゴミ扱いされ、犯罪者とされた浮浪児に「栄光」をかぶせ、世間へ痛烈な反撃をしたのではなかろうか。

* 海老名香葉子さん 小学5年(11歳)のとき孤児になった。
 静岡へ縁故疎開していたが、叔父が復員してきてから家を出され、各地を転々とする。雑草を食べて生きてきたので食べられる雑草はすぐわかるという。学校へは行けず、小学5年で止まった。怠けていたのではない。勉強したくてたまらなかったが、行くことができなかった。親がいれば当然ながら学校に行けたはずだ。
 その後、三遊亭金馬師匠宅においてくれるといわれたときは「これで命が助かった」と。明るく一生懸命はたらき、出入りしていた三平さんと結婚した。ねばり強い努力で、運命を切り開き、現在はエッセイストなどで活躍しいる。こうして有名になった人は孤児の中でもわずかである。

* 日本人なら、小学、中学、高校、大学、と何回も卒業式を経験するのだが、ただの一回も卒業式を経験しなかった哀しみは、今の人にはわからないだろう。小学校も卒業していない孤児は非常に多く、強い劣等感を持っている。40歳から夜間中学へ通った人もいれば、独学した人もいた。また生きるのに精一杯で勉強どころでない人もいた。


* 世間は血縁関係がある親戚は、ひどいことをしないという意識があるようだ。「引き取ってくれた親戚の悪口は言うべきでない」といわれ、実態を明かせない孤児は多くいる。