* 葉ちゃんのこと、女、10歳(小4)
 葉ちゃんは東京の江東区で生まれた。家は鉄工場を経営していた。葉ちゃん10歳、弟6歳のとき、親戚宅へ縁故疎開した。父も母もときどき姉弟を訪ねてきて励ましたり、親戚へも高価な品物を持って姉弟の面倒を頼んでいた。かなりの額の仕送りも親戚へしていたから、両親が生きているときは親戚もよくしてくれた。
 弟は母がくるとはしゃぎまわった。膝の上にのったり、首に手をまわして抱きついたり甘えたいさかりだった。母が東京へ帰ると、葉ちゃんが学校から帰るのを待ちかね、学校まで迎えにきて、葉ちゃんの後ばかり金魚の糞のようについてまわっていた。
 3月10日の大空襲以後、両親からの連絡はぷっつりとぎれた。弟は駅までいき、列車から降りてくる人の中に両親がいないかと、一日中駅で待っていた。親戚から両親は空襲で死んだらしいと聞いたが、信じられなかった。遺体もない、死を確認していない。信じたくない。「どこかできっと生きている。私たちを置いて死ぬはずがない」と思っていた。
 しかし、親戚の態度が急に変わったのである。葉ちゃんと弟は別々の親戚に預けられた。あれほど仲の良かった弟と引き裂かれた。葉ちゃんは学校へ行かせてもらえず、女中、子守と一日中働く毎日になった。親からの仕送りがなくなってから、厄介者として扱われるようになったのである。
 幼い弟が心配だった。子守をしながら弟のいる隣村までいった。弟はやせ細り、家の人の夕食時に外へだされ、ひざを抱えてしゃがんでいた。役にたたない弟は食べ物が与えられなかった。思わず抱きしめ号泣した。「お姉ちゃんといっしょに暮らそうね。もう少しまってね」「ウン。きっとだよ。指切りげんまん」と弟と約束した。
 しかし、11歳のの子どもに何ができるだろうか。毎日子守をしながら、自分のわずかな食事の半分をかくれて弟に持っていくのが精一杯だった。弟はいつも彼女を待っていた。
 2、3年過ぎたころ、弟が結核になった。弟は死ぬのか。全身の血がさぁーと引いていった。一緒に住める日を待ちこがれていた弟をなんとしても助けたい。弟の笑顔を見たい。死なせたくない。毎晩泣き暮らした。当時は健康保険などなかった時代で、病気を治すには金が必要だった。頼る人、相談する人もない。
 以前、声をかけられたことがあった。「なあ、家へ来ないか。腹一杯食わせてやるぜ。その気になりぁ金なんか、ぞくぞく入ってくるんだぞ。弟と一緒に暮らせるぜ」そのとききは薄気味悪いおじさんと思っていたが、その家へ行く気になった。そこは売春宿だったが、お金をかせぐには他に方法がなかった。
 弟は生きる気力が失せていった。「死んだらお母ちゃんのところへいけるの」と聞いた弟が、母のところへ逝ってしまった。葉ちゃんは張りつめていた気持ちがぷつんと切れたようで弟の死後、すっかり塞ぎ込み、誰とも一言の言葉を交わさないようになり、食事もとらなくなった。ある日、夢遊病者のようにふらりと外へ出ていったまま帰ってこなかった。生きる支えも気力もなくなっていた葉ちゃんは、自殺したに違いない。21歳だった。
戦争で翻弄された子どもの命。同じ死ぬなら空襲で親と一緒に死んだ方がよかったと思う。

* 身元不明、引受人のいない遺体は「行倒れ死者」(野垂れ死)として扱われ、無縁さまになる。孤児の死者はみな無縁さまになっている。手を合わせる所もない。