3.自殺した孤児

* 広瀬富子さん、女、8歳(小2)
 私の家族は母と兄(18歳)姉(10歳)弟(5歳)祖母(父は病死)の6人家族で川崎市に住んでいた。昭和20年4月15日、川崎市に空襲があり母が焼死した。黒こげになり遺体は見つからなかった。それから兄は住み込みで働きにいき、4人は多摩川の近くのボロ部屋に住むが、食べ物が何もない。祖母は孫を餓死させないため一生懸命だった。多摩川の土手で雑草を摘み食べたり、近所の子守りをしたりして飢えを凌いだ。
 私が中学1年のとき祖母が病死した。姉は中学卒業しないで住み込みで働きにでた。私と小学4年の弟は新婚の兄宅へ預けられた。兄も23歳の若さで給料も少なく、2人の子どもを育てるのは大変だったろう。兄嫁からことごとく邪魔にされた。兄嫁の身体から憎しみが煙のように立ちのぼっているようで、恐ろしく身が縮まっていく。とぐろを巻いた蛇に首を絞められるようで、私はとうとうたまらなくなり逃げて、おじの家へいった。
 弟も兄嫁の虐待に家を出た。まだ10歳、浮浪児になったようだ。10歳ではどれほど苦しい生活であったことか、盗みをしなければ生きていけなかったと思う。そして少年院へ入れられた。
 数年後、私が寿司屋で働いていたとき弟がたずねてきた。ヤクザのように崩れた風体だった。弟も働ける年代になったが、働くには保証人が必要だった。兄しか頼る人はなく、兄が家にいるころを見計らって夜たずねていくのだが、兄嫁に家に入れてもらえない。何回いっても玄関にカギをかけられ、「帰れ」といわれ「とうとう兄に会えなかった」という。私も未成年であり、給金はわずかで、そんな弟に何もしてやれなかった。姉はアメリカへ行ってしまい日本にいない。それからの弟の消息はなかった。何をして暮らしているのかわからなかった。
 私が38歳のとき、弟の自殺を警察から知らされた。弟はビール瓶のようなもので腕をなぐり、深く血管を切って、お寺の前でよりかかるように倒れていたそうである。「覚悟の自殺だ」といわれた。弟は35歳だった。
 弟は戦争で母を奪われた5歳のときから人生が狂わされたのだ。弟は何のためにこの世に生まれてきたのだろうか。苦しむために生まれてきたのか。生まれてこなければよかった弟。戦争が憎い。私はそれからうつ病になり「死にたい」と口走るようになった。弟に何もしてやれなかった自責の念にかられ、辛い毎日を過ごしている。 

孤児が一番ほしかったのは親
 当時、何が一番、欲しかったですか。「アンケート調査」の問いに、22名全員が親と答えている。家が焼けて無くなってもかまわない。何もなくてもいい。ただ親が生きていてほしかったと。親は子どものために自分を犠牲にしても、我が子を護ってくれる。片親でもいれば、子を護ってくれただろう。疎開する前までは大事に育てられてきたのである。何よりも自分を愛してくれる人がいなかったこと。誰も心配してくれる人がなく、孤独との闘いの日々。自分の安心できる居場所がなかった。親戚、知人宅より養護施設に入りたかったと孤児たちはいう。