「ガラスのうさぎ」 高木敏子著より

 1980年代「ガラスのうさぎ」はベストセラーになり、映画にもなったのでご存知の人はいるだろう。孤児自身が語った数少ない本の一つである。
 敏子さんは縁故疎開していた国民学校六年生のとき、母と妹2人を3月10日の空襲で失い(遺体不明)、父は二宮で機銃掃射により殺され戦争孤児になった。敗戦後、兄が復員してきた。焼け跡へバラックの家を建てることになり、その家を建てるまでの6ヶ月の間、食事代は渡すから敏子さんを預かって欲しいと親戚に頼んだが、祖母をはじめ3人のおばから断わられた。仙台のおばから「食事代を払らってくれるんだね」と念をおされて、預かってくれることになり、仙台へいったが、学校へは行かせてもらえず、水くみとヤギの世話をさせられ、兄が仙台の冬は寒いからと送ってくれた長靴を、いとこに取り上げられた。そこでの生活にいたたまれなくなり、5ヶ月で兄の所、東京へ逃げ帰った。

 
ここに孤児たちと共通する問題が4つある。

1、食事代を払っても親戚におけないと断られたこと

 敏子さんは6年生、自分のことは自分で出来る。たった6ヶ月間「食事代を払うから置いてくれ」と頼んでも、生活が苦しいからと3人のおばたちに断られ、祖母すらも断わり、置いてくれなかった。一円の食事代も払えない孤児たちは、どうなったであろうか。親戚中から厄介者扱いされ、親戚をたらい回しされたり、食事を与えられなかったり、暴力をふるわれたり、知人に預けたり、養子に出したりした。

2、学校も行かせず、おば宅で労働力として働かせたこと
 仙台へいった敏子さんは学校へ行きたかったが、日中はヤギの世話をしたり、水くみなどしで働く。すなわち労働力として預かったのである。食事代を払っているにもかかわらずに働かされたのである。役にたたなければ預かることはしなかったであろう。
 孤児は労働力にされた。役に立たなければ置いてもらえない。小学校へも行かせてもらえず、奴隷のようにこき使われた子が多くいた。

3、長靴や疎開荷物の半分を取り上げられてしまったこと
 それは高木さんだけでなく多くの孤児たちが経験している。私も母が大阪へ家財、ふとん、着物など疎開してあったが返してくれなかった。荷造りを母と一緒にした祖母は、何をどれだけ疎開したかをよく知っていたから悔し涙を流していた。また、母の残した貯金は、姫路のおじが、その金で新しい工場を建てた。小学生以下は財産の管理ができない。死人に口なしで、親が疎開させておいた荷物をすべて取り上げられてしまった、という孤児は多くいた。それほど敗戦当時は物資が欠乏し、人心が荒廃していたのだ。

4 敏子さんは5ヶ月で、いたたまれなくなり、おば宅を逃げ出す
 敏子さんは兄がいたので逃げて帰れる所があった。兄がいなかったならどうなっていただろう。置いてくれるところはあっただろうか。兄も姉もいない子は親戚を逃げても、どこへも行くところがない。行き場のない孤児は親戚、知人宅で労働力として働き、そこでがまんするか、あるいは逃げ出して浮浪児になるか。二つに一つしか選択肢はなかった。私も男の子だったら親戚を逃げ出し浮浪児になっていたかもしれない。