1.浮浪児とは

浮浪児=寝る所がなくさまよい歩く子。
 
戦前には浮浪児はいなかった。敗戦後は浮浪児が3万5千人(朝日年鑑)いたという。戦争の落とし子である。戦争孤児が住むところもなく、食べるものもなく、巷をさまようのである。浮浪児は戦後、数年間は巷にあふれ、大きな社会問題となった。アメリカ占領軍から「汚いから浮浪児を一掃しろ」と命令された国は、浮浪児を捕まえる。その捕まえることを「刈り込み」といった。捕まえても大勢の浮浪児を収容する施設が足りない。劣悪な環境の施設に押しこめ、逃げ出さないようオリの中に閉じこめたが、逃げ出す子が多かった。

「俺たちは野良犬か」山田清一郎著より
 一人っ子だった山田さんは10歳(小4)のとき神戸空襲で両親を殺された。昭和20年6月5日、敵機襲来で防空壕に避難していたが、何発ものしょうい弾が壕に突きささり「子どもを早く」と母に押し出された瞬間、壕は崩れ親たち大人は生き埋めに。神戸は戦火で焼きつくされ、死体が山になっていた。死体を片付ける大人は誰もかまってくれない。 10歳の山田さんはなすすべもなく2、3日は母の生き埋めになった壕の側で寝たという。お腹が空いてたまらない。人が集まる駅へいっても誰も食べ物をくれない(当時は食料のない時代だった)。ゴミ箱をあさり、腐ったものを食べた。そのうち4人の孤児たちが焼け跡の銀行の金庫に住みつくようになり、仲間と一緒に行動するようになった。
 その内の一人が腐ったものを食べて中毒死した。それから野良犬の真似をしてゴミの外側だけを食べるようにした(中は腐りがはげしい)。それでもお腹のたしにはならない。腹はへる。駅などで親と弁当を食べている幼児の後から近づき弁当を奪ったりした。仲間のアキラはトマトを盗んで逃げたところを車にはねられ即死した。
 それから無賃乗車して東京へ出て上野の地下道に住みつくようになった。コンクリートの上でごろ寝する。髪は伸びほうだい、服は垢まみれで固い板のようになりボロボロ、変な虫がうようよわいている。鼻が曲がりそうな臭い匂いをさせていた。
 この子たちを世間では浮浪児と呼び、「バイキン、汚い臭い、乞食」と世間から爪弾きにされ、忌み嫌われていた。食べ物は「拾うか、物乞いするか、盗みをするか」しかなかった。この上野地下道には山田さんと同じ浮浪児(戦争孤児)が大勢いた。
 ある日、千葉へこないかと誘われて行ったら、10歳前後の子どもに、朝の5時から乾燥芋の仕事や豆つくりの仕事をさせられた(児童労働)。食事は家族とは別、貧しい食事で土間(地面)でさせられ、犬猫と同じ扱い。そこを逃げだし、また浮浪児になった。
 「刈り込み」で捕まり、長野県に孤児施設ができるからと、そこへ行くことになった。復員してきた坊さんが上野に浮浪児がいっぱいいるのをみて孤児施設「恵愛学園」をつくったのである。長野大本営の跡地にある小さい掘っ立て小屋が、12人の孤児たちの住み家になった。浮浪生活で小学4年から3年間も学校へ通えなかったが、地元の人は「野良犬、バイキンがきた」といって、1年3ヶ月も地元の小学校へ通学できなかった。やっと通学できるようになっても、最初は物置小屋で教師からも差別され、人間扱いされてこなかった。一緒に生活した孤児たちの行方は、現在、一人の消息もつかめない。