「語ってくれ、重い時間を」 詩 丸橋秀一
                      (「焼け跡の子どもたち」より)


どよもせる雷(いかずち)も/ あれ狂う雨風の夜も/ 時へれば/
なつかしく語りあえるものをー

幼くして/ かの修羅の場を在りしみなしごたち/ 歴史につらなる時間を/
その重き時間を/ どうして語らせようかー

一人でいることと行き場のない孤独さと/ 泣くことのできる悲しみと涙もでない哀しみと/ 大声で叱られるこわさと無言で追われる恐怖と/ 淋しさとうつろな寂しさと/

空腹と飢餓(うえ)のちがいを/ どんな言葉でどのようにして/ 語ってもらえるだろうか

生きのびた小さな生命(いのち)を/ 罪と思う日があったことを/ 死ぬことが安らぎだった/ みなしごのいたことを/ 涙もかれたうつろな瞳を/ 虚脱した心を/ 怨むことすらもあきらめてしまった/ 小さな魂の寂寥(せきりょう)を/

この国の歴史は/ 何も遺そうとしない

国の内 国の外で/ あまりにも幼くして/ 地獄をみてしまった/ みなしごたち/
思い出すことは/ 死につらなる恐怖を呼びさますだろう/ でも語ってくれ/
心を鬼にして語ってくれ

軽々しく/ 「わかる」などと/ 言ってもらいたくないに違いない/ できることなら忘れ去りたいだろう/ でも語ってくれ/ 修羅のとき/ 修羅につらなる重い時間を
  (中略)
いまは亡きみなしごたちの/ 声なき声を伝えてくれ/ むしりとられてしまった/
生命の叫びを/ 魂の訴えを/ 伝えてくれ/ 一片の骨すらも残せず/ 人々の記憶からさえ消しさられてしまった/ みなしごたちのことを/ 伝えてくれ/
それは/ あなたたちだけにしかできないことなのだ
あなたたちの語らいが/ 人間が人間であることを/ 思いださせてくれるだろう
  (後略)
        (長い詩は紙面の都合上、省略する)


丸橋秀一氏談話
 「私が高校生(1951年ごろ)のとき、後輩に孤児施設の子が何人か入学してきました。その連中は小石や茶碗のカケラを、親の形見と称して大切に持っていました。我々にすれば、そんなガラクタがなぜ宝物なのか不思議だったのです。彼らは空襲で両親を殺され、家、財産のすべてを奪われ、家族の写真や思い出につながるものは何一つなく、自宅の焼け跡から拾ってきた小石、茶碗のカケラが、親の形見だったのです。
 彼らは浮浪児生活をへて品川博氏のつくった<少年の家>という孤児施設に入所、それから小学、中学、高校へ通いました。私は新聞部員だったので、<戦争を考えよう>という題で記事を書きたいと思い、孤児の伊藤幸夫君にあいました。話を切り出すと、伊藤君は何かを見据えるような目になり、歯を食いしばり、肩がぶるぶる震えだし、固くにぎったコブシもガタガタふるえています。やがて、<いつか機会があればお話します。今はどうしても語れません>と目を潤ませました。私は全身を震わせている姿に強い衝撃をうけ、孤児の心の深淵を覗き、ずっと心に引っかかっていたのです。。地獄の底で生きてきた恐怖。それらが蘇り、語ることができないほど、恐ろしい辛すぎる体験をしてきたのだと思いました。」

伊藤幸夫さん、10歳男(小4)と品川博氏(丸橋氏関係)
 伊藤さんは浮浪児になり、刈り込みで捕まえられ孤児収容所におくられた。軍人あがりの施設職員から、軍隊もどきの殴る、蹴るの体罰は日常的に行われていた。隙をみて7回も脱走、手に負えない悪ガキと烙印をおされ、さらに体罰がまっていた。
 そのような体罰主義に反対した施設職員の品川博氏が、子どもたち数人を連れ施設を出た。郷里へいったが「野良犬、ゴミがきた」といって追い出され、しかたなく子どもたちと土方や靴磨きをしながら施設をつくるための資金をためた。寄付もあり、念願の孤児施設「少年の家」が群馬県にできた。
 伊藤さんは高校卒業後はアメリカへ渡り、苦学して大学の教授になった。1995年全米州教育庁長官協議会日本代表として来日、品川博氏と50年目の再会がテレビで放映された。品川氏の愛情が伊藤さんを救ったのだ。

孤児収容施設を見てきた人の話
 大阪のHさん(10歳、小4)は大阪空襲で一家全滅、孤児になったので、親戚が施設にあずけようと連れていった。施設へいって驚いた。子どもたちが大勢まるで猿のようにオリの中に入れられている。服はボロボロ、すごい臭気がする。オリの隙間から枯れ枝のような手を伸ばし、訪問者の衣服を掴んで離さない。「何か食べ物をください」と必死に訴えている。すがりつく目で服を掴んで離さないのだ。あまりにの哀れな姿に仰天して、親戚はHさんを預けられなかった。
 東京も神戸も弧児施設の内容は同じであった。食事、環境は劣悪で、隙をみては逃げ出す子が続出した。そして巷をさまよい、盗みをして浮浪生活をする。親が生きているときは食べ物の心配はすることがなかった。暖かいふとんにくるまりぐっすり眠れた。子どもらしい遊びもでき、間食も与えられた。学校にも行き、将来に夢があった。

国は、浮浪児=非行児、不良児とみなしていた。
 浮浪児は、盗みをする悪ガキで、少年犯罪者として極印を押され、少年院や鑑別所に入れられ社会から隔離された(牢獄)。矯正と称して殴る蹴るの体罰は日常的だった。国会でも人権蹂躙だと問題になった。(第一章には孤児の写真があるので参照されたい)。
 生きるために盗みをする子どもに罪はあるのだろうか。「親を返せ」という叫びが聞こえてくる。「だれが浮浪児になりたいものか、親が戦争で殺されなかったら、こんな姿にならなかった。戦争を起こしたのは大人だろ。なぜ、大人に非道い目にあわされるんだ」という孤児たちである。