東京大空襲訴訟

 2007年(平成19)3月9日、131名(内、孤児55名)が「国の責任を問う裁判」をおこした。集団で提訴するのは戦後はじめてである。私は裁判というのは原告の主張にたいして、被告が異議を述べ、お互いが議論し、その上で裁判長が判定を下すと思っていたのだが、国は一言も反論しない。(反論できない)。そして「事実認否の必要がない。法的根拠がないから、ただちに却下せよ」だった。
 その間に7人の原告が病死した。亡くなった孤児の内、三人の孤児の話をもっと詳しく聞いておきたかった。残念でならない。
* Hさんはヤクザの親分に育てられた。親分のいいなりになり、小遣いも貰えなかったので、金の使い方もわからない。世間知らずになっていた。大変な苦労をしてきた。
* Oさんは親戚で虐待された。成人して我が子を持つようになったが、ちょっとした怒鳴り声が、そのときの虐待と重なり、パニックになってしまうのである。Oさんの子はその親に苦労したらしい。子、孫にまで継続する苦しみがあった。
* Iさんは垢にまみれた身体、やせ細り栄養失調でお腹がふくらんでいた。小3で子守奉公に出された先で、はじめて同じ食卓で食べられたという。転々とし34歳で2歳の子を持つ人と見合い結婚した。その子が自分と同じ垢だらけであったから決意したという。
 裁判の第一審は2009年12月14日、敗訴になった。「原告の請求を棄却する。裁判費用は原告の負担とする」たった1分の冷たい裁判長の声に、しばらくは棒のように身体が硬直した。若い裁判官には空襲の深刻な被害が理解できなかったようだ。
 私たちはすぐに控訴し、現在も闘っている。この裁判は各新聞に好意的に報道された。この裁判で世間に空襲が知られるようになった。裁判所の記録に、きちんと書き残された意義は大きい。(第五章で孤児の戦後や裁判を後述する予定)
 これから空襲被害の実態について、私の知るかぎりを述べていく。
 空襲の残酷さ、悲惨さは体験した者しか語れない。私も75歳になった。目も見えづらくなり、身体のあちこちにガタがきている。私の生きているうちに、これまでの遺族や体験者の証言をもとに調査してきた空襲の実態を書いていく。