3.堀り残された遺体

 個人により湿地帯や窪地、防空壕の中に埋め、土や砂をかけたのも多数あった。軍、都の「遺体処理」が終わってから発見された遺体もかなり多い。
「亀戸天神の前通りでは水道工事のため長い穴が掘られていたが、その穴に付近の住民が多数の死体を埋めてしまった」(関川泰治氏所証言)
「1947年の暮れ、庭丸という屋敷のまわりは、ちょっと掘ると骨ばかりでした。その骨をきれいに集め、その上に墓標を立てました」(岡田孝一氏文より)。
 敗戦後に焼け跡に家を建てようとして、土を振ると遺骨が出てきた。弥靱寺のように、個人で3、500体も焼却、処理した例もある。
 都公園課の座談会で「その後、あちこちから骨が出てきたのですが、問題になるので何となく処理しました」というように、うやむやに処理されてしまったようだ。。
 昭和30(1955)年代、経済成長とともにバラックだった家をビルに建て替えるため地面を掘ると、遺骨が出てくる。下町の建設業者の社長は「作業員が下町のビル建設は骨がいっぱいでてくるから嫌だ、といって作業にならないのです。骨を集め、墓標をつくり、きちんと慰霊祭を行ってから、建設作業をしてきましたよ」と聞いた。いかに多くの堀り残された遺体があったか。遺族は「まだ目の玉や髪の毛などが埋まったままの上に、ビルが建っている」という。
 
* 以上、1.海へ流失 2.ガレキ、灰になった遺体 3.堀り残された遺体 と述べてきたように、これらは遺体そのものが無いのである。この数がかなり多い。黒こげでも人間の形をした遺体は仮埋葬された。この10万余人と、遺体のない死者数を合計すれば、どのくらいの数になるだろうか。
 都公園課は埋葬処理した遺体数しか報告していないため
「この数は当時収容処理された体数で行方不明、埋没、流失体は算入していないので、その後の発表数字と相異があります」とわざわざ断り書きしている

一家全滅
 10日の空襲では一家全滅が多かった。逃げるさい一家が手をつないで一緒に逃げるからである。一家全滅は死亡届けをだす人がいない。まだ戸籍簿から消えていない人が多いのではないか。と公園課の話である。
 墨田区の中和地区では85%の住民が死亡した。(岡田孝一氏文より)
住民100人のうち、生き残ったのは15人しかいなかったのだ。墨田区菊川地区では、80%の住民が死亡した。墨田区は本籍簿も焼失した。本所小の疎開児童Hさんは
「私は戸籍がないため無国籍になって大変苦労しましたが、親がいたので復権できました。私の近所の人たちはぜんぶ全滅しましたが、戸籍に記録がなくなっているのです。
 ある先生が子どもの学籍簿と疎開したときの資料から調査、照合したのですが、死亡者は名前が消えていました。記録がないのです。まるっきり名前も残らずに死んでいった人たちが多くいるということですね。孤児たちも多くいましたが、届け出る親か、親戚がないと無国籍になってしまうのです」と語っていた。(「かけはし」より)
 鳥肌になってくる。こんなことがあっていいのだろうか。