1.川から海へ流された遺体

 当時の下町は掘り割り(小さい川)が縦横、無数に走っていた。火に追われて川へとびこむ。この小さな川や大きい隅田川では溺死、凍死で、川の面も見えないほどの死体で埋まっていた。そして、川底に沈んだり、海へと流されていった死体が何万人いたか。
「父、母、姉2人長男の嫁、その子、一家6人が川へ飛び込みましたが、ひとりも浮かび上がらず、結局、6人全員の亡骸もありません」(野々山恵美子「だんだん」より)
「天皇の巡行路の遺体処理で、一番関係者の頭を悩ませたのは、竪川、大横川など多数の掘り割りに浮く死体であった。おびただしい数が海に流れていったはずなのに、まだたくさん浮いているのである。消防隊がトビ口で引っかけて引き寄せておいて、ロープをかけて橋の上に引き揚げるわけで、一体を引き上げるのにたいへんな手間がかかった。
 こうして川いっぱいの死体をやっと引きあげるとと、翌日の満潮時には、また川いっぱいの死体が浮かぶ。作業員たちもくたくたになって重い死体を、ようやく片づけると、その翌日の満潮時には、また、川いっぱいの死体で、いったいどこからくるものか皆目わからない死体の攻撃に、死体収容関係者は悪戦苦闘をつづけた」(久保田氏証言)のように、何万という死体が海へ流されていった。
 海底に沈んだ遺体はシャコ、魚類、貝類に食べられ、すごく大きくなった蛤(はまぐり)やあさりを、東京湾近くに住む友人はどうしても食べられなかったという。戦後の長いあいだ、東京湾の底は遺体からでた燐で青白く光っていたそうである。
 千葉、品川あたりの海岸へ打ち上げられた遺体も多くあった。戦争中ではあり、人々は自分の命をまもるのが精いっぱい、放置された遺体に、野犬、カラスが集まり、いつのまにか遺体は骨になり、そのうち風に飛ばされてなくなっていた。

* お台場へ打ち上げられた遺体
 「隅田川からお台場に流れ着いた何万という遺体。その無縁仏を弔うために民間の有志により、台場海浜公園内に建てられた角塔婆。塔婆が立っているのは都有地のうっそうと木が茂る中に高さ3メートルの古い角塔婆があり、区民有志でつくる<大黒講>が定期的に訪れ慰霊をつつけてきた。都から台場整備のため、塔婆の撤去を求められ、『撤去したら無縁仏の行き場所がなくなる』と断ったが、大黒講メンバーの高齢化から結局、塔婆は撤去になり、燃やされ灰になった」。(1993年8月25日読売新聞より)
 なお、お台場では軍が各所に遺体を埋めているが、軍の機密でベールにつつまれたまま。戦後40年後に、その一部が軍関係者の証言により判明したが、その上にテニスコートがつくられた。この埋められた遺骨の上に、立派な建物を次々に建てたのである。
 ある霊能者は「お台場を歩くと、成仏していない霊がうようよしており、なんだか気分が悪くなる場所だ」といっていた。
 この川から海へ流失した遺体数は、久保田氏が数万と述べているが、私も5万人ぐらいと思っている。