4.重傷者
 (病院へ運ばれたり、疎開した先で、のちに死亡した人)

 病院へ収容されたのは身動きできない重傷者ばかりであった。第一に治療する病院がなかった。地方へ疎開したのち、傷が悪化して死亡した人もいただろう。
 防空本部調査では重傷者97、961人、東京空襲を記録する会は重傷者75、322人となっているが、この人たちはその後どうなったか。
 聖路加大学の学生だつた安増武子さんは、3月10日トラックで運びこまれた重傷者の姿に衝撃が走った。男女の区別もつかないほど黒こげの状態で虫の息だった。病室いっぱいに並べ、それでも足りずに、ロビーから廊下、体育館も瀕死の重傷者であふれた。
 傷口からウジがわき、悲鳴やうめき声、異臭にまみれた患者たち。看護学生は洋服を着たまま靴ははいたまま横になり、2、3時間しか睡眠はとれず無我夢中で働いた。野戦病院と同じであった。緊張の連続であり、死者に出会っても、人間としての感情が凍りつき、何も感じなくなっていた。敗戦になってようやく人間性を取り戻したという。

清瀬病院
 大空襲後の3月16日、軍用トラックで大火傷を負った罹災者が清瀬病院へ運ばれてきた。息も絶えだえの重傷者は髪も衣服も燃え、全身が真っ赤に焼けただれ火ぶくろになっていた。身元を証明する名札も燃えてしまったので、身元が不明であった。
 重傷者は破傷風で半数が亡くなった。破傷風菌とは土の中に生息する菌で、傷口から破傷風菌がはいると全身けいれんを起こし、死にいたる恐ろしい病気である。なぜ破傷風菌が入ったか。それは火に追われた人々は空気が真空状態になり息ができなくなる。伏せの姿勢で両手の爪ぜんぶをはがしてまで地面を堀り、窪みをつくって息をする。助かりたい一心だった。破傷風は注射をすれば助かるのだが、病院には医薬品がなく、亡くなった。
 清瀬病院では亡くなった人を火葬できずに行路病者として扱い、近くの園福寺へ埋葬した。そこに「無縁供養塔」が建立されている。住民有志で慰霊祭を行ったという。
 この話は最近聞いた。それまで重傷者が破傷風で大勢亡くなったと聞いてはいたが、遺族に引き取られたと思っていた。行路病者扱いは清瀬病院だけでないかもしれない。他にもあったであろう。こうしてその後の死亡者も調査もされてこなかった。