3.東京都の隠ぺい

震災慰霊堂
 1923(大正12)年9月1日に関東南部に大地震があった。被服ちょう跡地(現、横網公園)へ逃げ込んだ人々の被服や荷物に火がつき、ここで大勢の人が亡くなったのである。その死者を悼み、世界各地から義捐金がよせられ、1930年に震災慰霊堂が建立された。震災死者の身元不明になった遺骨が安置されているのが震災慰霊堂である。

横網町公園
 この横網町公園は関東大震災の場所である。震災慰霊堂の他に、震災当時の状況を伝える絵、写真、遺品、図表などが展示されている復興記念館や、震災遭難児童弔魂像、朝鮮人犠牲者追悼碑、震災死者を悼み青嵐句碑、鐘楼など震災施設が満載されている公園である。
 この震災施設は空襲で焼けずに残った。この場所で空襲死者は一人もいなかった。空襲とは縁もゆかりもない所であるが、戦死者遺族会(軍人)と、GHQの両方から独立した慰霊碑建立の反対によって、この震災慰霊堂(納骨堂)の後室に、1952(S27)年から、戦災死者の遺骨が置かれた。そして名称を東京都慰霊堂と改めたのである。
   

   東京都慰霊堂に奉祀してある霊数
(一)大正大震火災遭難死者(有縁、無縁とも)        58、000人
    内氏名判明して霊名簿に登録したもの         38、825人
(二)昭和大戦殉難者(軍以外の一般都民、有縁、無縁とも) 105、400人
    内氏名判明して霊名簿に登録したもの         30、365人
 (この数は当時収容処置した数で、行方不明、埋没、流失などは算入して
  いないので、その後の発表数字と相違があります)
 
           (「ああ、三月十日」東京都慰霊協会発行より)

霊名簿はどこに? 
 昭和大戦殉難者(戦災死者)、氏名判明者の霊名簿登録30、365人とある。
私たち遺族はこの霊名簿が、どんな形で、どこの場所に置かれているか知りたいと思った。
 震災死者の霊名簿は「1万年保存(永久保存)できるように、水晶ビンに入れ、鉛製の円筒に入れ、最外部をカーボランダムでつくった円筒形の保護容器で包む」(1930年3月、東京朝日新聞))と、立派な容器に入れられ、慰霊堂の正面に置かれている。
 ところが、このあるはずの昭和大戦殉難者の霊名簿が慰霊堂にないのである。慰霊協会は東京都が持っているといい、東京都は慰霊協会が持っているといい、水かけ論で一向にらちがあかない。要するに霊名簿は無くなっていたのである。置いてなかったのだ。
 その空襲死者霊名簿は、Kさんが自宅に持ち帰り保管されているのが、戦後60年近く過ぎてから判明した。なぜ自宅へもちかえったか?。伝え聞くところによると、「東京都が霊名簿を焼却しようとしたので持ち帰った」という話である。
 霊名簿は簡単に扱うような代物ではないはずだ。よほどの事情があったに違いない。Kさんは遺体を埋める作業、遺体発掘作業、火葬、慰霊堂へ安置、霊名簿作成と、空襲死者と32年間も向き合ってきた人である。どんな事情があったのだろうか。

霊名簿の作成
 1951(S26)年ごろ、「発掘し火葬にされた遺骨を遺族にお渡します」と都広報紙に載ったらしい。それを知人などから伝え聞いた遺族は慰霊協会へいった。(地方などに住み、知らない人も多くいた。孤児は子どもであったから知らない)
 氏名判明者は個人別に箱に入っていたので手続きをすませ、直ぐに受け取れた。(氏名判明者は約7千体と少なく、まだ、現在まで取りにこない遺骨が、約3千も残っている)
 合葬の場合は、石油缶ぐらいの容器に250〜300体入れてあったから、一体の遺骨はごく少量であっただろう。遺骨はあり余っていた。押しかけた遺族の大半は氏名不詳で遺骨を受け取れない。そこで、どこの誰だかわからない遺骨を渡されたという。
 Oさんは、「同じ戦災で亡くなったのだから、家族と思い供養する。そうすれば自分の家族の遺骨も誰かが引き取り供養してくれる」といっていた。そういう考え方の人が多かったと思うが、Iさんは夫の親から「誰の骨かわからない他人の骨を家の墓に入れられない」と断わられ、慰霊協会へ返しにいったという。
 遺骨を受け取るさい、「故人の本籍、住所氏名、生年月日、罹災地、申請者の故人との続柄、認印、」などの書類を書き、埋葬許可書が交付されるのである。
「お墓があっても遺骨かないと埋葬許可書がでない。そこで墓籍(過去帳)に記載しておまつりすることができない。戦死のばあいは、全国的に公報だけで埋葬処理ができるのに、戦災死者には、それができないのである」(「戦災殃死者改葬始末記」より)
 そのため「氏名不詳」の遺骨を申請者に渡したようだ。そこから霊名簿の作成をしたらしい。元公園課の人たちの個人的な努力によって、30、365体が登録された。Kさんたちが、どれほどの苦労をして霊名簿を作成したかを遺族は承知している。東京都が組織的に霊名簿を作成したのではない。
 震災の霊名簿は立派な容器に入れられ永久保存されているが、戦災死者の霊名簿は貧弱、粗末すぎた。両方の霊名簿を比較すれば、都が戦災死者をどれほど冷遇してきたか、明白になるだろう。この証拠が残ると困るから消してしまいたかったのではないか。
 戦災孤児たちの証拠書類もことごとく焼却してしまった。(第一章参照)そして「知らぬ。存ぜぬ。証拠がない。」というのが官僚の常套手段である。Kさんが持ち帰ってなければ燃やされていたかもしれない。私の背筋に悪寒が走った。
 あるとき、私は都の幹部に尋ねたことがあった。
「あの震災の場に空襲を入れるとは、それで空襲の歴史が遺るとお思いでしょうか」
それまで饒舌であった都幹部は返事ができずに黙ってしまった。その顔を見て、「都は空襲の歴史を消そうとしている」と、私は直感したのを思い出す。
 1997(平成7)年、東京都が作成した「都立公園ガイド」の「横網町公園」の99ページには、大正12年の地震の状況、歴史などが全ページを埋め尽くしている。震災死者58、000人とあるが、空襲死者105、400人はない。空襲の記載が全然ないのだ。完全に空襲および、空襲死者はヤミに沈んでいるのである。

* 戦災死者氏名は1997年ごろ青島都知事になってから、遺族はじめ関係者の強い要請ではじめられたが、すでに50年以上経過しており、当時30歳以上の遺族のほとんどが死亡しているため非常に困難である。都の氏名収集にもまったく熱意が感じられない。




都の復興優先
 沖縄
 沖縄は周知のように糸満市、「摩文仁の丘」平和祈念公園には、237、000人の犠牲者名が礎碑に刻まれれている。沖縄戦の戦死者はじめ、民間の死者名も、沖縄で戦死した敵国兵士の名も刻まれている。戦争で命を落としたすべてを悼み、追悼する姿勢に私は感動した。敵国の兵士も、民間人も、日本の兵士も、戦争さえなければ殺されずにすんだ人々である。訪れた人は犠牲者氏名に圧倒され、死者を悼み、非常に厳粛な思いで手を合わせる。家族の名をいとおしそうに撫でている姿もテレビに写しだされていた。

 広島
 広島市は敗戦直後「いまだ市中には幾多の遺体かガレキの下に埋まっている。その遺体の整理と犠牲者の供養をしないで、復興事業をはじめるということは絶対に間違いだ」と広島市長が率先して、1946年4月「広島市戦災死没者供養会」を設立、まず「遺骨の収集と供養」を行った。1951年5月には広島市が全国を対象に原爆死没者調査に着手し、現在まで続けられている。「平和記念館」では毎年、原爆供養塔納骨名簿が公開されている。

 東京
 東京都は何をしたか。安井都知事は、まず戦災ガレキの処理からはじめた。5トン積みトラック16万台で、80万平方メートルを東京湾へ埋め立てたのである。80万と一口にいってもわかりにくいが、後楽園公園が7万平方メートルだから後楽園公園が11ケ入る広さてある。そのため東京湾は元の形がなくなり、ガレキでできた造成地ができ上がったのだ。木場公園22万平方メートルもガレキを埋めて造成した公園である。(ちなみに横網町公園は2万平方メートルである)
 都は空襲死者の調査や供養は眼中になかったようだ。このガレキの中に空襲死者のバラバラにされた遺骨、灰になった遺骨も大量にあったのである。都知事はじめ幹部は復興事業を最優先させ、広島や長崎、沖縄のように、死者を悼みさえしなかった。。
 死者氏名は調べるつもりなら調査できたはずである。新聞広告も一度も出してない。戦後、戦死者は国勢調査で3回も調査している。その国政調査のおり、戦災死者も一緒に調査できたはずである。自治体トップの指導者により、これほど市民への対応に違いがあることに愕然となった。
 さすがに気が咎めたのか、東京都は次のように述べている。

「東京大空襲における最大の悲劇は、死傷者や罹災者の正確な把握がついにされないまま今日にいたったことである」
「敗戦とそれにひきつづいた占領軍の軍政下という特殊事情があったために、できなかったという言い訳は理由にならない。都民の戦後はかりにも敗戦後、主権者であることを認められた国民ー都民ーの受けた戦災被害の実態を明らかにし、それを基礎に戦後の復興が考えられ、行わなければならなかったものである」
 
        「東京百年史」(第6卷)東京都発行より