4.国の隠ぺい

空襲の歴史を遺さない
「高校の日本史教科書、県史、市史の空襲に関する記事は不十分、不正確である。近代史上、最大の事件である空襲公的記録に、当時の大本営発表をそのまま引用して<正史>にしているものさえある。戦争に関する多くの公文書が焼却処分にされてしまったとはいえ、戦災史を語り継いでいくうえで、公的な記録はあまりにもお粗末で冷たい。それにつけても、当てにならないのは、公的な記録だった」と、小山仁宗氏(関西大学教授)は述べている。
 たしかに大震災の記事は詳細にわたり相当数のページに書いてあるが、空襲の記事は不十分で全体像もわからない。空襲実態の調査がなされなかったために、内容が実に不正確である。
私の 息子や娘(40代)も学校で空襲について勉強した記憶がないという。現代は7割が戦後生まれであり、学校で教えなかったから知るはずがない。現代の子どもは空を飛び交う飛行機の映像に、あの空爆の下に何が起きているかを知らずに、「カッコイイ!」と叫ぶのである。そして現代も世界各地で空爆され、民間人が殺されている。

国は追悼碑も資料館もつくらなかった
 戦後、経済成長を成し遂げた日本には、各地にあらゆる博物館、資料館、美術館などが林立しているが、戦災死者の追悼碑も資料館もない。2005年に国会で「全国戦災死没者追悼碑」の建立が、満場一致で議決されたが、現在にいたるまで建立されていない。

世間一般の人たちは何も知らない
 以前、戦地から帰ってくる息子を岸壁で待ちつづける母の唄があったが、孤児たちも同じだった。駅へいき終日母を待ちつづける子がいた。雨でびしょぬれになりながら外へ出て郵便配達を待っている子がいた。また、母が消えた川辺にたち毎日母の姿を追った子もいた。親はきっと自分のところへ帰ってきてくれると信じて。あきらめられなかった。世界中で一番大切なかけがえのない母、何年も何十年もずっと待ちつづけた。
 また、一方で、突然、親の死を知らされた子がいた。ある人から
「村へ東京から疎開していた子がいたんですよ。その子が夕方になると裏山へ登り、大きな木にしがみついて大声で泣いていました。ボクはなぜ、あれほど毎日泣くのか、不思議でならなかったのです」と聞いた。
 親に食べさせてもらう、家族そろって食卓を囲む、親に甘えオヤツをもらう。学校へ通い友だちと遊ぶ。という、ごく普通に暮らしている子には、親、家族が突然いなくなり、帰るところの無くなった子の悲しみ辛さは、とうてい理解はできなかったであろう。
 戦死の場合、家族の中の一人か二人の死亡で家族全員ではないから、残された家族が互いに励まし合い助け合い、大人だからなんらかの知恵もあったと思うが、子どもはひとりでは生きられない。どうしていいのかわからなかった。
 親なら我が子を育て保護するのは義務であるが、親戚や知人には養育する義務はない。親とはまったく違うのである。その後、孤児たちはどのように生きてきたか。世間の人々は知らない。都市が戦場になり、火の海の中で民間人が大虐殺され、孤児が大量に輩出されたことを知る人は少ない。国は孤児の歴史を残していない(第一章「戦争孤児」参照)。空襲の歴史も学校で教えない。現在、空襲の歴史を知っている人はきわめて少ないのだ。


戦災死没者と戦争死没者の違い
 私は「戦没者遺族援護法」(1952年)ができたと聞き、厚生省へ電話をかけた。
「戦没者というのは軍人の遺家族のことでして、戦災死没者の遺族に援護はありません」と言われた。同じ戦争で殺されたのではないか。なぜ戦没者でないのか納得できなかった。
 私は小学校3年生(9歳)のとき一家全滅して孤児になった。親戚に預けられ18歳のとき無一文で東京へ出てきた。家がないので住み込み先を捜したが、親も家もないので断られ、やっと見つけた店員も夜具一式もってくるようにいわれ、ふとんを買うお金がなかったのであきらめた。ふとんなしで働ける所は飲み屋の女中しかなかった。飲み屋で働いていたとき女将から養女になれといわれ(私を利用するため)断ったら、夜に追い出された。泊まるところがない。浅草寺の脇でしゃがみこんでいたらヤクザに追いかけられた。私の持ち物は少しの下着の入ったバック一つ、それが私の全財産だった。みすぼらしい姿で今晩寝るところ、働かせてくれる所を必死に捜す、相談する人は誰もいない。たったひとりで生きねばならなかった。金は生きるために必要不可欠である。金のない惨めさは、親の援助のもとで学校へ通っている人には想像もできないだろう。孤児たちは金がないため、どれほど苦労してきたか。どん底の生活を余儀なくされた。
 私と同じ考えの孤児は多くいたらしい。後で聞いた話である。
* 孤児になつたTさん(小6、12歳女)は、親戚で朝5時に起き、夜寝る瞬間まで働いていた。親なら食べさせるのは当たり前だが、親でない親戚で食べさせてもらうのは、遠慮、気兼ねがあった。孤児たちはよく働いた。普通の子の数倍も働いてきた。無料で働き、小遣いもなく、そして彼女は17歳で親戚宅をでた。(このような孤児は多くいた)
しかし、その後も住み込みで働いた寿司店では、店の仕事から、子守り、家事全般にいたるまで、こき使われた。抗議してくれる親のない孤児たちは利用されるのである。つぎの仕事を探すにも金がない、今夜ねるところがないから、どんな所でも働いた。Tさんも厚生省へ電話している。「戦没者でないからダメだといわれた」と憤慨していた。
* Nさん(小5、11歳女、孤児)は親戚宅を転々と回された。学校も行かずに働き、仕事先も次々に変わった。ある女中先で性的虐待を受けそうになった。やっと美容院の住み込みになり、苦しい修業をへて美容師の資格をとろうとしたら、中学を卒業していないから資格が取れないといわれた。(孤児は義務教育の学校へ行かれなかった子が多くいた。中学卒でないと理容師や看護婦、調理師などの資格がとれないのだ)。
 Nさんは「なぜ孤児は資格がとれないのか。なせ援護してくれないのか」と国へ手紙を書いて出したそうだが、ナシのつぶて、返事はこなかったという。

戦災殃(横)死
 敗戦後の政府は、戦死(軍人)と戦災死(民間人)を明確に区別、差別した。
国は民間人の戦災死者を「戦災殃死者」といっていた。「戦災殃死者改葬始末記」(昭和60年発行)も戦災殃死者となっている。殃死(横死)とは「野たれ死」のことで、家のない人や犯罪人が道路などで行き倒れになり無縁になることをいう。
 空襲死者には医者、弁護士、社長などもおり、日本国民の一員として、どの人もごく普通に生活していたのである。人徳のある人、社会のために尽くしてきた人もいた。「横死」無縁者であるとは…。何か悪いことをしてきたのだろうか。勝手に死んだのであろうか。

戦没者遺族援護法=軍人だけ厚遇
 1952(昭和27)年4月28日、講和条約が発効され、日本が正式に独立国家になり、アメリカの支配から解除された。その2日後の30日に旧軍人の「戦傷病者及び戦没者遺族等援護法」が公布された。水面下で準備万端、整えていたらしい。
 国はその後も、GHQによって廃止された「軍人恩給」を復活させた。軍人恩給はアメリカから「軍人を特別待遇する、世界に類のない悪辣、非道な法律である」といわれた法律である。この恩給で軍人、軍属には年約1兆円、これまで約50兆円が、国の税金から支給されている。
 戦時中にあった民間人の「戦時災害保護法」はとうとう復活しなかった。戦災遺族や戦災傷害者は「同じ戦争で殺されたり、傷害を負い、人生を狂わされたのだから、私たち民間人にも法律をつくり、援護をしてください」と国会議員へ何十年も働きかけ、14回も法案が国会へ提出されたが、厚生省役人や自民党議員によって14回とも廃案にさせられた。民間人には65年間の今日にいたるまで、一円の補償も援護もなかったのである。
 敗戦時の鈴木総理は、戦死者と戦災者の遺族に対して同等に扱っている。
「鈴木海軍大臣(4月より総理)は3月10日未明、小石川の自宅から火の海の空を凝視し、実に淋しそうだった。そのとき決心したのかもしれない。総理になって主戦派を抑え、ポツダム宣言受諾にふみきったようだ」と野老山警察署長は述べている。(「週刊文春」1965年3月15日)総理はあの黒こげになった死体の山も見てきたのてあろう。
 昭和20年8月14日 官報号外がでた。

 告諭 内閣告諭号外
  中略…
 特ニ戦死者戦災者ノ遺族及傷痍軍人ノ援護ニ付イテハ国民悉ク力ヲ効スベシ…
  中略…
           昭和二十年八月十四日 内閣総理大臣男爵 鈴木貫太郎
 

日本の軍人優遇
* 私の夫の兄は中国から帰還した。仕事につき、その上に「軍人恩給」が支給されている。生活には困らない。また命を落としたわけではない。元の家族そろった生活に戻れたのである。生きて帰国し「生きていてよかった」といっていた。
* 隣家の人は兄が戦死、弟がその兄の遺族年金を受給していた。弟が病死すると、その子(甥)に弔意金が支給されている。伯父(戦死)とは関係うすく戦争を知らない世代だ。 軍人、軍属の遺家族は、三親等(ひ孫、甥)まで支給されている なんという軍と民の違いであろうか。戦災孤児たちは、親も、家も、財産も、故郷も、学業もすべてを奪われ、明日は生きてないかもしれないという凄惨な人生を過ごしてきたのだが。

外国の補償
 第二次世界大戦に参加したドイツ、イタリア、フランス、イギリス、アメリカは、軍と民を平等に補償援護している。外国人には、この日本の軍と民の差別が「どうしても理解できない。信じることができない」と、首を傾げ、私たちがウソをいっているように思われるのである。それほど外国人には日本の補償制度が不可解で理解できないようだ。