1.軍による空襲の隠ぺい

国民の戦時中の生活
 戦争中は「国家総動員法」の公布により、国民の生活は国家統制されるようになる。
20歳以上の若者は兵にとられたり、勤労動員され、街中から若者の姿を見かけなくなった。銃後の守りをまかされた女性は、国の命令でバケツリレー、火たたき棒で火を消す訓練に日夜精を出した。夜中には空襲警報でとび起き、毎日のように防空壕にはいる。敵機のバク音に耳をふさぎ、恐怖に震えていた。市民はぐっすり眠ったことがない。
 すべての品、食料品も配給制になり、オヤツも着る物も何もかもなく、街中から生活用品が消え開店休業。子どもたちは「ほしがりません。勝つまでは」のあいことばで、一にがまん、二にがまん、三にがまんさせられた。
 各町会ごとに「隣り組」が組織され、お互いの言動を監視するため、うっかり話もできなかった。当時、女性はスカートをはくのも禁じられ「もんぺ」(ズボンのようなもの)をはいていた。友人のYさんは着るものがなかったので若いときの着物をほどき、もんぺをつくったら、派手な「もんぺだ」と、寄ってたかって非難され、罵倒されたという。ピンクや赤のものを身につけるだけで非国民といわれた。
 「治安維持法」で、戦争反対の言動があれば、特高(特別警察)に検挙された。虐待され、獄死したり、刑死した人も多くいた。すべてが軍のいいなりになり、「見ざる、言わざる。聞かざる」で、市民は怯えていた。
 3月10日の大本営発表は、これほどの民間人大量虐殺を一言も報じなかった。「大火災を発生したるも、他は3時ごろ鎮火せり」と、民間人は他の一言で片付けられた。
 15歳の少年H君は東京空襲惨状を目撃して、友人に手紙を書いておくった。「大本営発表はあてにならない」とか「日本は神国で神風が吹いて必勝なんて怪しい。」「これはこれはとばかり、灰の東京都」と書いたら、憲兵隊に呼びだされた。当時は私信にいたるまで軍が検閲をしていたのである。まさか子どものだした手紙まで、軍が検閲するとは彼も知らなかったのである。軍の下士官から取り調べられたという。警察には彼以外に大勢の男の人はもちろん、おばさんまで取り調べを受けていたといっていた。埼玉のKさんは見てきた空襲の惨状を生徒に話した罪で検挙され、終戦まで釈放されなかったという。

軍の遺体隠し
 軍は遺体が天皇の目に触れないよう10万体以上の遺体を、、ゴミのように直ちに穴の中に埋めて隠してしまったのである。(第二章「遺体処理」を参照されたい)
 川へ入り凍死、溺死した遺体は、海へと流されていった。そのおびただしい死体は海底に沈んだり、または、お台場などへ打ち上げられた遺体もかなりあった。軍はその遺体を穴に埋めた。その事実が戦後40年が経過してから、旧軍関係者の証言で判明した。(「読売新聞」1985年3月10日)
軍によって空襲は隠ペイされてきた。

遺族の遺体捜し
 遺族は半狂乱になって自分の親や子の遺体を探し回ったのである。一週間も十日も捜した。無我夢中でその間、どこで寝たのか、食事はとったのか、記憶にないという。すごい死臭さえ気にならなかったそうだ。それほど家族の死体捜しに必死だったのである。なんとしても捜しだし家族のもとへ連れ戻したかったのである。
 山積みされた黒こげの死体の中に何か家族の手がかりがないか、一体づつ調べて歩いた。しかし、死体はほとんどが黒こげで男女の見分けもつかなくなっていた。その間に軍がトラックで死体を運んでしまった。トラックで上野公園へ運ばれたと聞けば上野公園へ、瑞江火葬場へ運ばれたと聞くと瑞江火葬場に。また、病院中もかけずり回ってさがした。
 どこへ遺体がトラックで運ばれたのか、どこへ埋めたのか。その実態を遺族には知らされなかった。とうとう遺体は見つからず、遺族は一生苦しむことになる。

敗戦
 1945(S20)年8月15日、日本は無条件降伏で敗戦になり、日本軍は解体された。当時の軍機密によって、空襲死者はどこへ、何体を埋めたかも判明していない。
 7人の家族が全滅して孤児になったYさん(15歳、男)は、ふしぎなことに家族と一緒に逃げた軍人の兄だけの遺骨が渡された。他6人の家族は不明に。「兄の氏名は確認したのだから他も判明したはず」と彼はいう。軍人だけが人間で、民間人は虫だったのだろうか。こうして空襲死者は軍によって隠ぺいされ、そのまま放置されたのである。