2.アメリカ占領軍の空襲隠ぺい

 敗戦になってアメリカ占領軍(GHQ)が日本を支配するようになった。GHQは空襲被害の報道を検閲し、禁止した。一行でも載せてはならなかった。アメリカは国際法違反の住民を標的にした大虐殺を行ったことを承知していた。(米軍資料より判明)それが明るみにでてくるのを恐れたのであろう。アメリカ軍が事前に爆撃目標としてリストアップした対象と、日本側が重要と考えた軍需工場の二通りのリストを私は持っているが、そのいずれにも市街地は入っていない。アメリカは軍事工場より、国際法違反の市民皆殺し作戦を行ったために、非人道的行為を無かったことにしたかったのであろう。
 戦地から帰ってきた兵士や、引き揚げ者の悲惨な体験は、冊子や新聞記事などに発表されていたが、空襲だけは記事も慰霊祭も、追悼碑建立も徹底的に禁止されたのである。

GHQの「指導方針」
(原文は縦書きである)
  官渉発424号 昭和22年2月24日
       
東京都長官官房渉外部長 磯村 英一
 官房各課長、支社長、二市長 殿
 各局長、各区長、地方事務所長 殿

 
戦災碑慰霊塔建立について
 左記のような戦災者慰霊塔を建立する具体案があり、これに関するアメリカ占領軍政部の考えについて、渉外部に問い合わせがあったので、占領軍政部に其の考えについて尋ねたところ左のような考えを示し、協力するように求められた。
 従って今後は左に示した方針を徹底的に守るようにしなさい。

 
現在司令部の指導方針
 1、日本国民に戦争を忘れさせたいのである。
 2、戦災慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。
   だから慰霊塔の建立は許可しない。

          
 1、目的 構造、戦災者慰霊塔の建設、高さ約10米、敷地160平米
 2、場所 隅田公園言問橋の畔
 3、発起人 戦災者救済会

 天災である地震などは、日本のすみずみまで細微にわたって報道され、援助もあるが、人災である空襲被害は、一家全滅、家、財産すべて奪われ、震災より甚大な被害をうけながら隠ぺいされ、援助もなかった。地方に住んでいた同世代の人たちは空襲の実態を知らない人が多い。まして戦後生まれの世代は、ほとんどが空襲の実態を知ないであろう。

* 国は戦死者を戦争死没者といい、戦災死者を戦災死没者という。これが非常にまぎらわしいため、一般に理解されにくい。両者にはたいへん大きな違いがあるので混同されないようにお願いしたい。


戦災死没者遺骨が震災施設におかれた理由
 井下清氏は、戦時中から都公園緑地課長として、戦災死者の「死体処理」にかかわってきた。その井下氏は、同じ戦争で亡くなった戦死者と戦災死者の遺骨を納める「戦争殉難者慰霊堂」を小石川の慰霊協会所有の場所に建立する構想をもっていた。
 しかし、戦死者の横瀬東京都遺族会理事長との間に激しいやりとりがあった。戦死者遺族会は「戦死者と戦災死者と一緒にできない」「軍人としての矜持がある」といって、あくまでゆずらなかった。両者はつねに平行線をたどっていた。戦災遺族は
「軍人は国を敗戦にさせた責任をとらず、まだ矜持などというのか。戦時下と同じか。同じ日本国民でないのか。民主主義になっても民間人をそれほど蔑視するのか」と、怒りに燃えていた。
 この対立に決定を下したのはGHQのハンズ宗教課長であつた。井下氏は何回もハンズ宗教課長を訪れ陳情した。その苦労は並々ならぬものであった。戦災遺族のためにどれほど心をいため、心を砕いていたか、遺族はよく知っている。
 結局、ハンズ氏は震災記念堂に戦災死者の遺骨を置くようにと決定した。GHQの命令は絶対だった。井下氏もこれに従うしかなかった。井下氏はせめて戦災死者の遺骨は横網公園(震災の場)内でも、震災と一緒にするのではなく、独立した堂に安置したいと考え、予算の問い合わせをしたのであろう。(米軍資料から予算問い合わせのの文がでてきた)それもダメだったのか、結局、遺骨は震災と一緒にされた。戦災死者のために心血を注ぎ、必死に活動してこられた井下氏の願いは、こうして断ち切られたのである。
 アメリカ占領軍は空襲被害の慰霊碑も慰霊堂もあっては困るのであった。住民大虐殺が世界に知られることを恐れたのである。震災施設のなかに閉じこめてしまえば、空襲の歴史は残らないと考えたのかもしれない。例えば弥靱寺のような例もあるる。

弥靱寺
 戦後、焼けあとに家が建ちはじめると、個人で埋められた死体がいっぱいでてきた。
(軍や公園課が埋めた以外である。個人が埋め、その上に土砂をかけておいたのが、戦後あちこちでみつかった)。堀だした死体の処理に困った人が、リヤカーにのせ、そっと夜中に運び、弥靱寺においていった。放置された遺体に野犬があつまってきた。
 弥靱寺住職、岩堀氏の母親は空襲で行方不明になった。本人も大やけどを負っていたが、目と口以外は包帯という姿で、焼けあとを捜しまわった。見覚えのある母の防空ずきんの切れ端を見つけた。そして他人の遺体も放置できなくなり、寺の境内で焼却したのである。
 岩堀住職は約3、500体の遺体を火葬した遺骨の上に、観音像を建立しようとしところ、GHQから「いかなる戦争記念物も建設してはならぬ」と脅迫されたという。
このようにアメリカは観音像の建立も慰霊祭さえ禁止したのである。

軍人との差別
 元軍人の遺骨は、戦死者遺族の思い通りに、のちに小石川へ戦死者の「東京都戦没者霊園」が建設された。東京都は「東京之塔」(沖縄)「鎮魂の碑」(硫黄島)の建設。都の戦死者遺族には「巡拝旅費支給」「慰労金支給」など、至れり尽くせりの厚遇ぶりだった。
 東京戦災死者の遺骨は、震災の場に仮住まいのまま、独立した追悼碑も資料館もない。空襲遺族に援護は一切なかった。(追悼は別の章で後述する)