東京大空襲
 
 東京は昭和19年11月から昭和20年(1945)8月まで約10ヶ月間、100回以上の空襲があった。とくに20年3月10日の東京下町を襲った大空爆は、世界に類がない世界史上最大の空襲であった。たつた2時間30分の間に10万人以上が殺されたといわれている。(この数字にも疑問があるので後述する)
 10万人と一口にいってもピンとこないかもしれない。1センチ四方の顔写真を新聞から切り抜き、紙に貼り付け並べると、小学校の教室の床全部が顔で埋まるそうである。(P魂sが作成)1000人の100倍である。さっきまで元気に暮らしていた一般市民が、降り注ぐしょうい弾で焼き殺されたのである。
 3月10日午前0時8分に空襲がはじまった。ヨーロッパのようにコンクリートやレンガで出来た建物と違い、日本の家屋は火災に弱い木の建物である。アメリカは建物がすぐ燃え上がる焼夷弾を開発、用意周到に計画した焼夷弾を使用して市民を殺傷した。。
 人口の密集している東京下町は、空爆後5分もたたないうちに火の海になった。人々は避難先になっているコンクリート造りの学校や、燃えるものがない広い公園へ避難した。
しかし、逃げる人々の上に容赦なくしょうい弾が降り注ぐ。防空ずきんや洋服に火がつき、人間が火だるまになる。火炎竜も巻き起こり、幼い子は飛ばされた。どこへ逃げてもすごい熱風、烈火だった。
 学校は割れた窓ガラスから火が入り、荷物といっしょに高温で燃えたので、人間の形すら残らない黒こげの死体の山になった。公園へ逃げた人も身動きできないほどの人で埋まり、火は公園にいる人たちを襲った。もう逃げるところはどこにもない。熱さに耐えかね次々に川へ飛び込んだ。
 3月10日朝方、空が白みかけ、あたりを見ると、見渡すかぎりの焼け野原の荒野になっていた。焼け跡のいたるところに死体が山になり、男女の区別、子どもか大人かわからない死体。マネキン人形のようなハタカの死体。手足もない黒こげの炭化した死体など。これがさっきまで生きていた人の姿か。
 下町の川という川には水面が見えないほど死体で埋まっていた。橋上では死体が天井の高さくらいの山になっていた。黒い山から突き出した手、足、頭。言問橋の上では数千人が焼死したといわれている。
 校舎内で燃えた人はガレキになり、地下室にはいった人は蒸し焼きになっていた。防空壕に入り白骨になった人もいた。防火用水に浸かったまま母子で死んでいた。
 死者は焼死、圧死、直撃弾による爆死、酸素欠乏の窒息死、川での溺死、凍死、川へ飛び込んだショック死、高温で骨まで灰になった蒸発死など様々である。
東京は死体の街になったのである。
 原爆の死者も凄惨であったが、空襲死者もそれに劣らなかった。2時間〜3時間にわたり、灼熱の火に追われ、逃げ場のない恐怖、身体に火がつき、断末魔の悲鳴をあげる。極限の恐怖、苦しみの頂点に達してから死にいたる。一気に殺された方が楽だったかもしれない。火あぶりの刑に処せられるような殺され方も、この上なく残酷である。
石川光陽の写真や様々な空襲画などあるが、あの凄惨さはとても表せないという。