調査結果

◇ 東京空襲で遺体の確認できた10名の内容をみると

(15)は、父がヤケドの重傷を負い、10日後に死亡した。遺体、遺骨はある。
(16)は、父親の遺体は判明したが、公園へ埋められてしまったため遺骨がない。
(18)は、家族4人で一緒に逃げたが、本人は生きのこった。姉と妹の遺体は神田川で見つかったが、母は行方不明に。14歳という年齢だったので見つけ、引き取ったと思う。
(21)は、空襲から3ヶ月後の6月に隅田川から遺体が見つかり、遺骨もある。
 以上のように東京空襲ではほとんどが、親きょうだいの遺体も遺骨もないのである。

◇一家全滅がほとんどである。
       たった一人だけ残された子どもは14名。
(7)は、父、母、兄、弟3名(11.9.5歳)妹2名(7、2歳)祖母の一家9名全滅。
(4)は、母ひとりの一人っ子だった。母が戦災死すると小1の子は学校へも行けなかった。
家族が全滅して、たった一人になった子は、(3)、(5)、(6)、(10)、(11)、(12)、(13)、(14)、(17)、(19)、(21)、(22)の22名中14名もいた。

◇ 幼いきょうだいだけが残された。
     バラバラに親戚へ預けられたり、子どもだけで生活した。
(1)は、小3の弟と2人残され、その弟は自殺した。
(2)は、兄16歳、兄とふたりで子どもだけの生活をした。
(8)、(9)、(15)、(16)、(18)、(20)にはきょうだいがいたが、一名を除き、きょうだい一緒の生活はできず、それぞれ親戚へ別々にあずけられたり、親戚をたらい廻しされた。とくに幼い子ほど悲惨であった。

◇ 疎開先に残された孤児
 親家族の遺体が見つかり、死を確認できた子は「もう二度と会えない」とあきらめるより仕方なかった。しかし行方不明の場合は遺体を確認するまで、だれが何といおうとし「死んだ」と信じたくないのである。「どっかで必ず生きている。だれか一人でも生きている」と思うものである。それが家族というものだろう。
 3月10日以降、学童そかい児童は、親や家族からの連絡がぱったり途絶えた。待てどくらせど何ひとつ連絡がこない。やがて「空襲で死んだらしい」と聞かされたが、遺体が見つからない。遺骨もない。まして地方へ移住していた子どもには、空襲の恐ろしい体験がないから何も判るはずもなかった。蛇の生殺しのような状態におかれたのだ。家族を捜しに東京へきて、浮浪児になった子もいた。
 厚生省調査で、「戦災孤児は東京2000人、広島2500人いた」となっていた。これは居住する場所での孤児調査である。したがって当時、東京下町の孤児たちのほとんどが地方へ疎開していたから、東京居住孤児は三多摩や世田谷、杉並などに居住していた孤児数である。東京での戦災孤児は3.5万人以上。広島の戦災孤児は約6000人ぐらいといわれている。
 このように戦災孤児でありながら、親が行方不明のため、調査する側は「戦災孤児」と認識できなかったのだろう。なぜ空襲死者の身元の確認ができなかったのか。それをこれから述べていきたい。