身元不明者(行方不明)
 
◆ 埋葬遺体
 私は橋本さんと発掘作業をした人に話を聞きにいった。実に生々しい話であった。
 「大きな穴を掘り、30人ほどならべる。その上へ30人、またその上へ30人。10層ぐらいで重ね、ちょうどタクアン漬けのようにです。」(公園課のSさんの話) 
私は2、3層かと思っていたのだが、約300人埋めたとなると10層になる。小学1クラス約40人として8クラス全員が詰め込まれたことになる。日本国内でこんな事実があったとは誰が想像できようか。
 「私は上野寛永寺の裏山へ出動した。3間×5間の穴を何十カ所も堀り、そこへ軍用大型トラックがきて、石炭を落とすように黒こげ死体をザクザク落とし込んでは走り去った。その上へ私たちは土をかけていった。」(長倉康裕氏文)
軍は死体をカンズメのように穴に押し込んだという証言もある。
 「遺体を発掘すると、その死体が腐りきり、湯気がでているのです。肉がコンビーフのようになって骨からポロリと落ち、死体がくっついて何体あるかわからない。焼却して頭蓋骨から体数を数えました。一番正確です」(公園課のSさん証言)
話を聞いただけで他人なら吐き気がするだろう。聞きたくないかもしれないが、もし、自分の親や子がこんな姿になったとしたら、どう思うだろうか。私たち遺族は自分の家族の死を最後まで見届けなければならない。目をそらすわけにはいかないのである。

◆ 埋葬されなかった行方不明者
この埋葬された遺体は、人間の形のある死体を埋めたのである。例えば窒息死、マネキン人形のようになった遺体、黒こげでも人間の形のあるものや川から引揚げ遺体などである。学校内、橋上、公園、その他で、ガレキや白骨、灰になった遺体は埋葬されてない。
 「われわれ勤労奉仕隊は江東区の牡丹橋に到着した。橋の両側は折り重なった死体の山だった。橋の上で焼かれた人は、この狭い小さな橋の上で6〜700人。これらは人の形はなく、白骨の山だった。大小、男女の区別も判らぬ白骨の山を、都の職員がスコップで砂利を運ぶようにトラックに投げ込んでいた。シャキシャキと音をたてて車上になげこまれると、骨煙が舞い上がり、痛ましいかぎりであった」(中山末吉文)
灰やガレキになった遺体はシャベルですくって軍用トラックに載せ、東京湾へ棄てた。という目撃証言も多数ある。

◆ 失踪宣告
 「現在でも空襲で死んだ人で戸籍から消えてない人がいます。失踪宣言の資料の問い合わせもきます。幼いときに孤児になり、成人してからワラをも掴む気持ちで捜すんです。ここに置いてある遺骨は、ぜんぶ無縁さまで、氏名など何もわからないのです。と説明しています」(公園課、小林氏証言)
 昭和20年3月18日 天皇はきれいに遺体が片付けられた後を視察した。軍がすべてを隠蔽してしまったのである。40年以上すぎてから、ようやく遺体処理が出てきた。
 以上述べてきたように、孤児たちの親、きょうだいが、空襲で死んだ。とわかっていながら、行方知れずになったのである。何とも残酷で、やりきれない気持ちになる。