仮埋葬
 
  東京都内仮埋葬遺体数の資料戦後にだされたもの
 仮埋葬された遺体数も資料によりまちまちである。資料は「戦災横死者改葬事業始末記」「東京大空襲戦災誌」「週刊読売」「東京都戦災史の3通り」と6通りあり、人数がそれぞれ違っているのである。どれが正確なのか。(この6通りの資料は六十年の会が作成した図録「東京大空襲展」12pに詳しく掲載されているので参照されたい)
 
◆ 130ヶ所に埋葬された(慰霊協会資料には150カ所とある)
 都内の公園、空き地、寺院など130ヶ所に仮埋葬された。錦糸公園、猿江公園には、ともに13、000人以上である。阪神淡路大震災6、500人の2倍が一つの公園へ埋められたのである。 都公園課霊園係(都民の死体を扱う係)が仮埋葬したところは、71カ所、これは公園課が配置図を作成して、責任をもって管理していた。しかし、公園課に無断で軍隊や警防団などが勝手に埋めたところが60カ所以上もあった。これらも公園課が発掘し火葬にした。その後も埋葬場所が見つかった所もあるという。

◆ 塚数
 塚数というのは、死体を埋めた場所に土盛りする。その上に竹へらのような墓標をたてておく。埋葬には個別と合葬がある。身元が判明した遺体は個別にされ、合葬の場合は、6尺の穴をほり、約30体を並べ、10層ぐらいに重ねて、ちょうどタクアンづけのように300体を一つの穴に入れたそうである。(公園課の人の証言)軍などで埋めたところはメチャクチャに放り込み、かんずめのように押し込んだところもあったそうだ。
 中和公園の場合は身元判明者がいなかったので合葬にされた。しかし、塚数からすると、一つの穴に962人も入れられたことになる。戦後、中和公園が畑になりカボチャなどをつくったそうだが「畑を耕すと人間の骨がでてきた」という証言がある。(岡田孝一氏文)人々は遺体が埋められたことさえ知らなかった。
 東京は焦土となり、焼け出された人たちは地方へと移住した。敗戦になり、バラックなどを建てて住むようになったが、空襲死者の仮埋葬など知る由もなかった。遺族もこの事実を知らない人が多い。世間にはまったく知らされなかったのである。

◆ 焼却年月日
 戦後、民有地へ遺体を埋められた地主から、「建物がつくれない」と都へ苦情が殺到した。知らずに立派な墓が建っていたところもあった。都は「公共空地整備事業」という名目で、国の補助2分1をもらってはじめた事業が、実際は死体処理だった。執行者は都の公園緑地課で霊園係の仕事だった。
 火葬場と火葬年月日は死体を発掘し、焼却した年月日である。昭和23(1948)年12月から、まず民有地から死体発掘をはじめた。S24年25年26年と約4年かかった。都公園課の職員が中心になり、日雇い人夫を雇い、大きな幕を張り巡らし(建設現場のように)秘密裏に発掘作業は行われた。人間は焼けると小さくなるそうである。一つの棺桶へ2、3体入れ焼却して遺骨にした。(「戦災横死者改葬事業始末記」より)