改葬始末記

「戦災殃(横)死者改葬事業改葬始末記 関係者座談会」
            昭和60年 東京都慰霊協会発行
 <殃(横)死=十分余命があるのに殺されたり、不慮の災難で死ぬこと>
 
 昭和60(1985)年、戦後40年もすぎてから、都公園課の死体処理に直接かかわった人たちの証言集が、はじめて出版された。
 都民は軍がトラックで死体を運び、公園などに埋められたことは知っていた。しかし、その死体がどのような経過で、遺体処理が行われたかを知らなかった。遺体発掘も遺族に知らされなかった。それが40年すぎてから明らかにされた。
 私がこの冊子を知ったのは、戦後50年近く過ぎてからだった。「関係者座談会 戦災横死者改葬事業始末記」という冊子を入手して、はじめて遺体処理の詳細を知った。

 この冊子は座談なので、話の内容が入り乱れ、話があちこちに飛び、わかりにくいが、それでも遺体処理にかかわった生証言であり、貴重な資料である。

「戦災横死者改葬始末記」より
 「公園緑地課霊園係が墓地、火葬場等の葬祭施設を直轄していた関係上、死体処理は祭務事業の一環として、この大悲惨の処理を引き受けることになりました。
 井下課長が東京での空襲犠牲者はどのくらいの予想かと軍に聞くと、およそ1万人ぐらいという予想だったのです。それで棺桶1万個を用意して保管していました。 
 3月4日までの空襲死者は、全部納棺して、火葬にして、遺族に渡すという順序でやってきました。一部遺体で、遺族に引き渡したのもあります。3月10日以前の空襲死体数10、695体は、すべて氏名が判明しています。全部遺族に引き渡しました。
 最初は仮埋葬など考えずにいたのです。全部正規のとおり、火葬による死体処理をやるのが原則でした。
 3月10日は死体の数えようがなかった。3月10日以降は、規模が大きすぎて結局、71ヶ所に仮埋葬しました。主として公園や空き地、民有の墓地などです。

 埋葬
 3月13日錦糸公園へいってみると驚いた。焼けぼっくいが積んである。これがみな死骸なのです。積んであるのを勘定するのですが、頭や足が入れ違いになって、首があるわけでなく、勘定する方法でまず困った。
 猿江公園は死体の山でした。体数を調べようがなかった。軍隊がドンドン埋めてしまうので、名前の判明者もあのましたが、取り出すこともできない。<体数を調べよ>といわれても調べようがない。死体のヒザやカカトの骨が残ってしまい、歩くとコツン、コツンと音がするありさまでした。
 菊川橋を渡るまで気がつかなかったのですが、たくさんの死体の上に木場の焼け残った材木を敷き、道にしているのを知らずに渡り、あとで驚きました。
 まったく東京下町一帯が火葬場の焼却炉のようになってしまったのです。この大量の遺体片付けに、軍隊、消防隊、警防団、挺身隊、囚人部隊、品川や大田区の大工や左官の報土隊など総動員されました。
 川の中の死体は生きているようでずらりと並んでいました。軍隊や消防隊がトビ口を使って引き揚げていました。それを調査にいったら、<何しにきた>っておこられましたよ。(海へ流失した遺体もかなりあった。)
 公園課が埋めた仮埋葬地は 死体埋葬配置図を作成、公園緑地課の南、北、西の公園事務所が管理していました。埋葬したところへ墓標をたてておいたのだが、薪にすめため持っていかれ、その被害にも困ったものです。
 軍隊や警防団などが、空き地だからと無断で埋葬したのがずいぶんありました。戦争中ではあり、予想をはるかに超えた発生件数と、人員不足、資材不足、通信、交通手段の衰退等で困難をきわめました。

 改葬
 
 改葬着手前まの集計は、総計89.430人と公園課へ報告があったものでしたが、
その後、頭蓋骨から数えたので、一番正確に近いものです。
 戦後、この仮埋葬地に本格的な墓石が建ちはじめたのです。住職は他人の土地に勝手に埋めてと大変な怒りようで、2分1の国庫補助を申請して「公共空地整備事業」という名目で、すなわち、戦災死体の片付けが趣旨で、公園緑地課霊園係により、まず寺院などの民有地から着手しました。
 改葬は昭和23年12月末からはじまり、約3カ年かけ、失業対策の日雇い人夫を雇い、冬季間、12月から翌年の3月までやりました。戦争中は現地焼却をしましたが、戦後は許されませんので、必ず正規の火葬にしました。
 個別死体はよかったのですが、合葬は大きな穴を掘ってパァーと入れたので、掘り起こすと腐って湯気かでる。腐って死体が一緒になっているし、何体あるかわからない。肉がコンビーフのようになり、骨からパラッと落ちる。何体あるかわからないわけです。
その異臭に倒れそうになる。凄惨至極でした。

 堀り残した遺体
 3月10日以降はメチャクチャになり、総体の犠牲者数もつかめなかった。 私たちは塚のあるところを掘るので、盛り土がなくなり平らになったところは、堀り残した場所もある。江東区、本所、深川あたりでは、かなり残っているのではないでしょうか。
 改葬後も、防空壕や地下室など掘ると出てくる。道路の端はみな簡易防空壕がつくってありましたから。電柱を建てようとしたら遺骨がでてきました。
 「小屋の下に頭の骨が見えている。早くとってくれ」といわれ、その小屋を壊して骨を取り出したこともあります。
 錦糸公園ですが、造成工事をするためのローラが動かなくなった。そこを掘ったら遺体がでてきました。改葬が終わったあとに出てくるんですね。堀り残してしまうと、問題になるので、何となく処理しました。昭和30年代には遺骨がアチコチから出ました。」
 以上は「戦災横死者改葬始末記、座談会」の要約、抜粋である。(この冊子は市販されていない)