東京空襲 遺体処理証言

 3月10日の昼すぎより遺体処理作業がはじまった。軍隊、都職員、警防団、消防隊、警察、挺身隊、学徒動員の中学生、博徒や囚人部隊にいたるまで、近隣から遺体処理をする人が狩り出された。
 
◇ 軍人の証言 関口宏陸軍大尉 (岡田孝一著「東京大空襲の私」より)
3月10日、午前2時、「死体を早く処理せよ」と軍命令が下った。
「3月10日午前2時ごろ、東部軍管区司令部の指揮下に入るよう命令をうけ、千葉街道を一直線に車で走った。市民の焼けぼっくいの死体をふんで走ることに罪悪感にさいなまされた。炎と煙、目をおおう死骸の折り重なる死の街をぬけ、朝、5時すぎ司令部に到着する。『貴下は特設自動車隊長として、本所、深川地区の死体処理に任ずべし。陛下が御視察遊ばされるを以て、日の出前に目にふれる死体を処理清掃せよ』と。3月10日午前10時、総数700余名、自動貨車40数台、命令に従い死体の処理につとめた。」 
 *実に驚くべき証言である。
 第1に、死体の上をトラックが踏みつぶして走る。死者の尊厳などまったくない。何台ものトラックが死体の上を走れば人間はペチャンコになるか、ばらぱらに引き裂かれてしまうだろう。
 第2に「死体を清掃せよ」とは。民間人はゴミなのか。恐ろしい言葉を平気で発するのは、市民を人間扱いしていない証拠だろう。ゴミとして扱っているのである。
 第3に「天皇の目にふれぬよう早く処理せよ」。戦争をはじめたのも天皇であり、戦争を終わらせるのも天皇である。最高責任者である天皇に、なぜありのままの実態を見せないのだろうか。もし、天皇があの凄惨な惨状を確かめたなら、戦争は早く終わっていたかもしれない。その後につづく沖縄地上戦も、広島、長崎の原爆投下もなかったのである。戦争を長引かしたのも、おそらく軍がすべてを隠して上奏していたのであろう。
 
◇ 囚人部隊の証言 三浦貞雄氏「週刊読売}1975/3/22より)
「我々は囚人約140人、引率者20人が錦糸公園に出役することになった。公園内はつくだ煮のごとくなった死体の山がいくつもあった。思わず目を覆わざるをえなかった。こんな状況がこの世の中にあるものであろうか。地獄とはこのことをいうのであろう。
 そしてトラックで死体を運んでくる兵隊、警官、消防官ー。どの人も焼死者の脂でドロドロになりながら、トラックから死体を降ろしていた。そしてわれわれ囚人部隊が、土に穴を掘り、埋めた。
 30人ほどの一団もやってきた。この部隊は東京の博徒だということだった。<武蔵挺身隊>という。また、横浜の博徒たちでは<大和挺身隊>と名つけて同じような活躍をしたと聞いててる。収容者による死体処理は、錦糸公園、猿江公園とつづけられた。私は死臭にはまったく弱った。」
*錦糸、猿江公園では、大きな穴を掘り、一つの穴に300人ぐらい入れたそうです。 

◇ 東京都公園課職員証言
 野三千寿氏(「改葬始末記」より)
「猿江公園へいきました。軍隊は朝の5時ごろにきて、6尺の穴をほり、そこへ死体を合葬する。そのとき『死体数をキチンと数え、名前のわかるものは控えて別に埋葬しろ』と厳しくいわれていたのです。その通りにしようと思っても、窒息死などで氏名判明者もありましたが、軍隊がどんどん埋めてしまうので取り出すことができない。そして軍隊は11時には帰ってしまうんです。
 12時すぎになると警察学校の人と監獄の人が死体を運んだんです。猿江は死体の山で体数を調べよといわれても調べようがようがない。トラックで死体を運んできて、何体ありますかと聞いても、いい加減な答えしか返ってきません。作業は6時ごろまでしました。」
*氏名判明者も一緒に埋められ、ある人の証言にメチャクチャに缶詰のように押し込んだ 所もあったという。私は「埋葬」という言葉を使いたくない。ゴミ扱いだと思う。  
 
◇ 瑞江火葬場の証言 山中政一氏証言 (「改葬始末記」より)
「空襲直後は死体をトラックで運んできて、渡り廊下から車庫近くに積んだのです。すると毎日、毎日、遺族が探しにくる、山に積んである死体を大勢の人たちが、あっちだ、こっちだ、と動かすものですから、朝のうちの山が、夕方にはこっちの方へ移ってしまうという騒ぎでした。とにかく氏名の判明した人から先に焼きました。火葬できずに瑞江構内に埋めた死体165体あります。」
*遺族は親や子の遺体を半狂乱になって探し歩きました。焼けこげの布切れ端からでも、 手がかりをつかもうと、黒こげの死体をひっくり返し、何日も、何日も必死になって探しつづけた。
 
◇ 救護隊長の証言 久保田重則氏(「東京大空襲の記憶」より)
「街のいたるところで、材木でも放り込むように、トラックの荷台に死体が投げこまれていく。これらの死体は公園や空き地に仮埋葬されるか、あるいは火葬された。上野西郷さんの銅像の横にも臨時の火葬場が設けられ、ここで何日も火葬がつづいた。1〜2週間は焼け跡のあちこちで、連日火葬の煙がたちこめ、もう死臭や火葬の悪臭を感じなくなっていた。
 そのうち天皇が視察されると知らされ、昼夜兼行で巡行路付近の死体片づけがつづいた。いちばん関係者の頭を悩ませたのは、竪川、大横川など多数の掘り割りに浮く死体であった。おびただしい数の死体が、海に流れていったはずなのに、まだたくさん浮いたいるのである。消防隊がトビ口で引っかけて引き寄せておいて、ローブをかけて橋の上に引き揚げるのだが、一体を運び上げるのに大変な手間がかかった。
 こうして川いっぱいの死体をやっと引きあげると、翌日の満潮時には、また川いつぱいに死体が浮かぶ。作業員たちはくたくたになって重い死体を引きあげる。ようやく片づけると、その翌日にはまた川いっぱいの死体で、一体どこからくるのかわからない死体の攻撃には悪銭苦闘をつづけた。このように隅田川や多くの掘り割りから、東京湾、太平洋へと流れていったおびただしい死体は、どのような運命を辿ったのであろうか。」