105,400体の遺骨
 
 遺体は前述したように公園空き地などへ仮埋葬された。敗戦になり遺体発掘作業が行われ、火葬に付し、その遺骨105.400体が、震災記念堂の後室におかれた。


昭和大戦殉難者(軍以外の一般都民、有縁、無縁とも)
105、400体
内氏名の判明したもの      7、157体    
(この数は当時、収容処理した体数で、行方不明、埋没、流失は
算入してないので、その後の発表数字と相違があります)

 
                「ああ、三月十日」慰霊協会発行より
  
 上の調査は、都建設局公園課霊園係が行ったものである。
都公園課霊園係は都内の墓地や火葬場施設などを管理、火葬証明書の発行など執行する課である。戦争中は井下清課長のもとで都民の空襲避難などの計画をたて、埋葬、火葬、遺体処理などの作業をしていた。
 戦後、死体発掘作業、火葬は公園課が行い、頭蓋骨から遺体数を調べたという。一番正確であろう。都民の死体処理はすべて公園課が行った。昭和27年では104.908体あったが、後からでてきたものもあり、それらを合計した数字である。
 
* 骨壺
遺骨は合葬死者を、地域別に250〜300ぐらいを一つの骨壺(石油缶ぐらいの大きさ)に入れ、約450個と、氏名判明者は個別に小さい骨壺に入れられた。その骨壺は震災記念堂の後室、関東大震災の死者の骨壺の隣におかれたままである。

 (写真・広瀬美紀氏)
  
* 身元不明93% 
 氏名判明者はたったの7%でしかない。93%が氏名の確認ができなかったのである。
寺院などでは、身元の確認(身につけた名札などで)してから個別に埋葬したようだが、軍隊が公園などに埋めた遺体は、氏名判明者も別にせず、大きな穴へ放りこんだために、どこの誰だか判らなくなったしまった人も多くいた。
 遺族は家族の死体を捜そうと必死だった。「あった!父ちゃんに間違いない」と、遺体を確認して他の家族の遺体を捜しているうちに、ようやく探しだした遺体を軍のトラツクで運ばれ、どこへ持って行かれるかわからなくなった。
 遺体を持ち去られないため母親の遺体を三日間も引きずり持ち歩いた、という証言もある。自分の子の遺体がある場所に「近づくな!。」と軍に威喝された。と涙ながらに語る人もいた。遺族は遺体を見つけながら手にできなかったことを、一生悔やむことになる。