横田パンフ第2版原稿(その2)


米軍の横暴と基地被害   
 米軍への優遇(その1)

 米軍住宅・思いやり予算

住宅施設

 16号線に沿って9階建ての高層マンションが目に入ります。これが米軍住宅です。
 ここには1棟あたり70世帯が住んでいます。
 こうしたマンションは基地内にはおよそ20棟あり、1棟あたりの総工費用が23億円といわれています。住宅は、平均5LDKで平均専用面積は1世帯当り約41坪。
家具・家電製品(洗濯機、乾燥機、冷蔵庫、デスポーザー)は備え付けのうえ、駐車場完備。住宅は、1部の高級将校のためのものでなく、平均的な家族持ちのアメリカ兵が住んでいるところです。基地東側住宅地には低層住宅もあり庭付きです。

水光熱費

 日本の家庭用の平均電力量は30アンペアですが、米軍住宅では各世帯に300アンペアのブレーカーがついています。
 在日米軍の使う水光熱費(電気・ガス・水道)は、年間で316億4400万円(98年度)にもなります。横田基地では、27億4700万円です。米軍の使う電力の使用上限は、127億7000万キロwです。家庭用になおすと標準家庭の月間使用量が280キロwで年間3360キロwとなります。これを米軍使用量と比較すると米軍の使用量は38万世帯に相当します。
 横田基地の97年度の電気使用料は、20億6千6百万円(1億2682万キロワットアワー)水道1億9千3百万円(46万2千立法メートル)下水道4億6千900万(2百19万8千立法メートル)灯油・軽油26500万、ガス1100万(13万9千立法メートル)。

学校施設

日本では30人学級でも実現が難しい中、米軍の子どもたちの通う学校は、クラス編成が25人学級。16号線に面して18人学級のためと見られる中学校建設も思いやり予算ですすめられています。基地内には、小学校、中学校、高校、幼稚園や大学まであります。 大学は、メリーランド州立大学日本分校で日本人も入学できます。

生活関連施設

16号線沿いの両側が基地でおおわれます。羽村住宅地域内には、円形状の建物のスーパーマーケット、銀行、映画館が建ち並んでいます。
 スーパーマーケットでは、コーラが22円、ビールが61円など日本では考えられない安さで売られています。アメリカから輸送機で運んできた牛肉も売っています。レクリエーション施設も、東西あわせて2カ所あり、屋内・外プール場、エアロビクスセンター、テニスコート、バスケットボールコート、野球場(内野席・ナイター設備付き5面)、サッカー、ラグビー場、基地南側に見えるゴルフ場(ショートホールのみ十ホール)などのスポーツ施設の他NCOクラブと呼ばれるパーティー会場も完備しています。
 現在も総工費用68億円(これも思いやり予算)の巨大ショッピングセンターを建設。
 さらに、旧日本軍の多摩弾薬庫跡地(稲城・多摩両市にまたがる)は横田専用の「米空軍多摩サービス・レクリエーション施設」になっています。ここには乗馬、キャンプ場の他、18ホールのゴルフ場やピクニック場があり、横田からヘリコプターで行くこともでき、まさにいたれりつくせりです。
 これらの施設、設備は、ほとんどが日本政府の予算、すなわち私たちの血税で作られています。これには大きく分けて、1977年度までの「関東計画」で作られたものと、それ以降の「思いやり予算」で作られたものとがあります。
<関東計画とは>  1960年代末から1977年にかけて米軍が行った首都圏の米空軍基地移転・再配 置計画です。これによって立川基地、キャンプ朝霞(現大泉中央公園)府中空軍施設(現 府中の森公薗)グリーン・パーク(現武蔵野中央公園)グランドハイツ(現練馬区光が 丘団地)などの施設を日本に返還する1方、横田基地にそれらの機能や施設を移駐・統 含したのです。そして、その移駐のための費用を日本政府が負担したのです。「移駐」 といえば引っ越しのようなもの。しかし日本政府が負担した「引っ越し」の費用は、土 地を確保し、施設を建設し、宿舎の備え付けの家具まで準備するというもの。総額約3 千億円といわれています。この関東計画が終わった78年からは、「思いやり予算」の 名目で米軍のさまざまな施設を整備してきました。

<思いやり予算>  横田基地周辺を住民アンケート調査に行ったとき、「思いやり予算はアメリカから払 ってもらっているのになぜ反対するのか」との住民の声。思いやり予算は日本政府から 支払っていると話すと怒り出す。  思いやり予算は、78年当時金丸防衛庁長官が米軍の駐留経費を増額するため「米軍 への思いやりを」とはじまったのがきっかけ。いまや予算規模は、当時の62億円から 2700億円を超す40倍に膨れ上がっています。基地内パーティー会場のウエイター の使う蝶ネクタイ、住宅、学校の建設・修理、など日常のものから戦闘機のシェルター、 滑走路修理費などなど。また、米軍が使用する電気、水道、下水道、ガスなど水光熱費 も「思いやり予算」。米軍への駐留経費負担は「思いやり予算」も含め6000億円を 超え、米兵1人あたり1500万円に。物品役務相互提供協定で米軍の行う訓練費用ま でも負担。さらにアメリカの戦争協力法導入で(ガイドライン)でまだまだ増え続ける 米軍負担。福祉、教育、医療など改悪で国民生活悪化、負担は増す一方で米軍にはいた れりつくせり、お金が不足すれば湯水のように国民の税金を投入するのが日本政府の考 え方です。


米軍への優遇(その2)

高速料金無料など税金まで優遇

米軍への優遇は、「思いやり予算」ばかりではありません。
 基地の中や国道16号線には「Y」ナンバーや英字だけでナンバープレートのない車が走っているのが目につきます。米軍の使う車については、地位協定第3条で税金の面でも優過措置がされています。とりわけ自動車税は、日本人の6分の1へと大幅に軽減されています。また、高速道路利用料金もさらにNHK受信料や市民税、消費税なども免除されています。 米軍が使うジェット燃料などは、日本の石油会社から米軍が購入しています。しかし購入額は、1リットル49円と1般国内のおよそ半額となります。しかも、石油製品にかかわる石油諸税は、免税とされています。免税額は7年間で226億円にのぽります。


自動車税減免措置の実態    単位:円
種 別 日本人米 軍
市町村税 軽二輪(バイク)  2400   900
軽自動車   7200  2650
都  税 自動車  39500  6500
自動車  45000 19000


関東の空を支配する横田基地

 戦後50年がたち、いまだに日本はアメリカに占領支配されているのか、そう思う人も多いのです。ところが、米軍に支配されているのは、この地上の基地だけではないのです。 関東の西半分から、新潟県、長野県、静岡県にいたる広大な空域は、いまだに米軍が「占領」しているのです。この空域のことを「横田エリア」といいます。「霊峰」「日本の象徴」といわれる富士山も、その上空は米軍に支配されているのです。
 ここでは、高度2万5千フイート(約7500メートル)まで横田にある米軍の管制センターが第1次管制権を持ちます。当然米軍機の都合のいいように管制が行われます。民簡機も飛行計画を出して承認されれば飛ぶことはできますが、横田、厚木、立川、入間などの米軍・自衛隊の基地に発着する軍用機の間をぬって米軍の指示通りに飛ぶのですから危険きわまりません。
 1992年6月に空域の1部が返還されましたが、羽田から西に向って飛ぶ飛行機は、急上昇しながら、中で何が飛んでいるかわからない横田エリアに突っ込んで行かなければなりません。運輸省の労働者の組織である全運輸省労働組合は、組合員である航空管制官の現場の声として、横田エリアが首都の航空交通を妨げる「西の壁」であり、安全運行の立場からも、1日も早く撤廃させるべきだ、と主張しています。この空域は「関東複雑空域」と呼ばれ、羽田・成田から飛び立つ民間機の空路に加え、米軍、自衛隊の訓練空域が隣接しているところです。1996年三宅島上空で、訓練中の米軍戦闘機とオーストラリアの航空機が。98年8月にも相模原上空で日航ジャンボと米軍戦闘機がいずれも異常接近するニアミスを引き起こしています。
 全運輸労働組合は、毎年実施の航空機乗務員へのアンケートの中で「軍用機と民間機とのニアミス事故が年々増えている」と警告しています。ガイドラインによりますます訓練は激しくなり、民間旅客機飛行とのトラブル、ニアミスは最悪の状況になります。
 地上も、空も、外国の巨大な軍事力に支配されているこの現実は、日本が真の独立国家であることを疑わせるものです。この屈辱的な実態の根本には、日米安保条約、すなわち日米軍事同盟があるのです。

さまざまな基地被害

墜落事故におびえて

 横田基地があることにより、周辺住民は多大な被害を受けてきました。飛行機の爆音による被害は代表的なものですが、周辺住民でなければ想像もできないようなさまざまな被害が起きています。最近では、96年のC141大型輸送機ホットブレーキの加熱故障事故についで、98年10月にも、C9患者輸送機のエンジンが火災を起こし、エンジンカバーが紛失するという事故が起きています。
 旧五日市街道に面した基地南東側にある立川市中里地域は、朝鮮戦争真っ最中(1951年)にB29が墜落して爆弾が炸裂し、民家111戸が1瞬のうちに灰になるなど大被害をもたらしてました。52年にも埼玉県金子村に墜落し17人死亡、民家13戸が全焼。 1960年代になると飛行機がほとんどジヱット化され、爆音被害はますます深刻となっていきました。64年7月には、F105Dサンダーチーフ大型戦蘭爆撃機、KC135空中給油機が住民の強い反対を押し切って配備され、翌65年2月に米軍がベトナム戦争で北爆を開始し、爆音被害は最悪となりました。また、F105Dは墜落事故も多く、東京近辺だけでも、青梅市、相模原市などに墜落しています。
 墜落の恐怖だけでなく横田基地に隣接する場所では、基地内に排水施設もなかったため、雨が降ると基地から水が流れだし、洪水になり64年にも28世帯が床上浸水に見舞われてました。

町がなくなった

 昭島市堀向地域内にある「堀向児童遊園」一帯は、1968年まで800戸の住宅や、50の商店、5つの病院がある繁華街でした。今では、公園、うっそうとした広葉樹におおわれた林となって当時を再現する面影は銀杏並木と2軒のお店だけです。
ベトナム戦争が激しさを増した1964年、その爆音の大きさから「雷の親玉」とよばれるF105D戦闘機が板付基地、現在の福岡空港から横田基地に移駐してきました。その年の12月、F105Dの超低空飛行によって発生した衝撃波で堀向地域の14戸の窓ガラスが割れ、銭湯に入浴中の婦人が血だるまになるなど、多数の人が負傷しました。こうした中で、66年10月昭島市議会は「大型輸送機及びF105Dの即時撤去を要求し、騒音激増に抗議する」決議を全会一致で採択。F105DがF4フアントムに交代した68年6月にも「米空軍の横田基地より即時撤退を要求する決議」を採択するなど、住民の怒りと撤退を求める声はますます広がっていきました。しかし、政府はこれらの要求を拒みつづけ、ついに2つの自治会は、集団移転をせざるをえなかったのです。68年10月第1次の集団移転が行われ、移転は70年代のはじめまで行われました。移転補償費は103万円。多くの人は、政府と昭島市の用意した「東の丘団地」に移転しました。また、地方の身寄りを頼って涙をのんで立ち退いていきました。集団移転によって堀向地区は、「街ぐるみ」破壊され、ゴーストタウン化したのです。跡地には防
衛施設庁の「国有地につき立入禁止」の看板が点々と立てられ、フェンスに囲まれました。周辺に残った人たちは、この集団移転によって街の中心部を失い、買物をするにも遠くまで出かけなければならず、夜中に子供が熱を出してもつれていく医者もなく、「無医村」「陸の孤島」のような状況に置かれています。
 
 ジェット燃料輸送と衝突事故

 国道16号線から五日市街道に入りボーリング場の手前に踏み切りがあります。この踏み切りをよくみると基地内施設に付き立入禁止の看板が目につきます。これが飛行機の燃料タンクが通る引込線です。
 横田基地で使う飛行機の燃料は、神奈川県鶴見区浜安善からJR南武線、立川駅で青梅線、拝島駅構内から引込線で運ばれています。
 現在は、週2〜3回程度で14〜16車両編成です。ベトナム戦争時は、1日120車両という多さで、1965年立川駅構内での車両衝突事故から引火し、付近の14の商店が焼失するという大事故も起きています。基地内南側サウスゲートを越し松林の切れ目に台形の形をした丘がみえる。これが地下燃料貯蔵庫です。
 燃料貯蔵庫は、鋼鉄製で作られています。88年には「非常時期間中ここに配置される航空機に適切十分な燃料貯蔵が必要」という米軍の要求で1万6千キロリットルの貯蔵庫を日本政府による「思いやり予算」10億円で新設されました。
 さらに90年代に増強されて貯油量25万バーレルの大規模地下貯蔵庫となっています。横田基地に飛来する航空機のおよそ3年間分と推定されています。これに加え、「老朽化したタンクの代替」を理由に、795キロリットル (5千バーレル)燃料貯蔵施設を「思いやり予算」2億4千万円を浪費し16号線沿いに、建設しています。
 ジェット燃料は、貯蔵庫から地下内にはりめぐらされた燃料パイプによって給油されます。

地下水も汚染・燃料漏れ事故

 93年には、基地東側の地下内の燃料パイプが亀裂しドラム缶340本分の燃料が地下内に漏れる事故が発生しました。事故当時基地内では、「即応体制演習」の真っ最中で、周辺自治体に通告されたのは事故後2週間たってからでした。
また、98年7月基地南側ポンプステーションで給油中に油が漏出する事故が起きています。現在でも、基地内で汚染された土壌を除去する作業が行われていますが、いまだ事故の原因や影響など明らかにされません。この基地の真下には周辺住民が利用している地下水の水脈もあり、汚染されれば「燃える井戸」どころか飲み水さえも奪われます。
 1967年には、昭島市の民家の井戸や水道が、基地内の地下から流出したジェット燃料に汚染されていることが明らかになり、「燃える井戸」として大きな怒りを呼びました。当時の住民の中には、油の臭いのする水道の蛇口に「火気厳禁」の札をぶら下げた人もいるということです。

米兵による殺人未遂事件

 東京都内でこの5年間米軍犯罪は、凶悪犯罪を含め、28件、31人が警察に検挙されています。98年12月横田基地所属の米兵2名による障害事件が発生しました。
この事件は、深夜福生市内を歩いていた瑞穂町に住むAさんに対し因縁をつけ殴り、Aさんより反撃されると車でひき殺そうとした残虐非道の殺人未遂事件です。裁判が行われ米兵2名に懲役2年の有罪判決が確定しています。裁判では傷害事件とされ殺人未遂罪としては取り上げられませんでした。この事件は、ちょうどアメリカのイラク攻撃の後です。 戦争になると米兵による凶悪犯罪が増えることを住民に暗示させる事件でした。
 交通事故によるトラブルも多発しています。1995年10月には、府中市内で横田基地所属の米兵が交通事故を起し、相手の日本人学生を死亡させています。この米兵も任意保険に加入してなくて遺族への補償もありません。
 基地の周りでは、けんか、駐車違反、タクシー料金の踏み倒しなども起きています。
 1983年には基地内から流れ弾が飛んできて窓ガラスを貫通しショーウィンドーをめちゃめちゃに壊す事件や、1988年には米兵の子供による自転車窃盗事件も起きています。また事件にはなりませんが、「ベランダでバーベキューセットでゴミを焼く」、「戦闘版で市役所に出入りする」など基地郊外にすむ米兵(およそ2千人)とのトラブルも苦情として自治体に寄せられています。

電波障害

 飛行によりテレビの画面が揺れて見えないことがあります。これを電波障害と呼んでいます。電波障害がひどいと受信アンテナも特別のものをたてなければならない場合もあります。また、NHK受信料は、飛行場の外辺から1キロメートル、長辺延長5キロの範囲内で電波障害が起きている地域には半額の減免措置がとられています。しかし、訓練飛行は縦横無尽におこなわれ、電波障害地域は拡大しており、周辺自治体、東京都は、電波障害指定区域の拡大や衛星放送受信料までをぶくむ全額の国負担を求めています。また、高層米軍住宅や、放送施設、高架水槽などのある地域でも電波障害が起きています。これは共同アンテナを設立するなど対策がとられています。

爆音被害

 現在の横田基地の爆音被害はどんなものでしょうか。 C130輸送機をはじめC9患者輸送機など日常的にタッチアンドゴーという訓練を行っています。タッチアンドゴーとは、あらゆる飛行横が離着陸の訓練としておこなうもので、その飛行機の任務によって少しずつ違ったやり方があります。
 横田のC130の場合には、最前線の短い滑走路に、地上からの砲火を避けるために一定の高度をとりながら近づき、滑走路のすぐ近くまできてから、迅速に急降下、着陸するための訓練です。そして、着陸して滑走路上でいったん停止した後、再び動き出し、今度は発進の訓練として急加速、急上昇を行います。この後五分間で基地の周囲を回り、これを繰り返します。周回コースの下では、5分に1回、80ホン前後(電車のガード下なみ)の爆音にさらされることになります。また、2機、3機がこれを交替でやることもあり、この場合には、2分30秒、1分40秒に1回となります。
 現在の横田基地の1日当りの飛行回数は、基地南側の騒音計の測定によると年間平均で約50回前後です。しかし、この数値には、基地の北側に向って発進したり北側から着陸してくる場合は含まれていません。また、米軍は週休二日制のため、土曜・日曜にはタッチアンドゴー訓練をやらないこと、ウィークデーでもやらない日もあることを考えると、むしろ日によって飛行回数に大きなバラツキがあり、多い日の爆音被害の深刻さを見えにくいものにしています。

深刻な夜間騒音

 民間空港の場合には、夜10時から朝7時までは発着しない、というように、夜間・早朝の飛行が制限されています。93年11月の日米合同委員会合意で「夜10時から午前6時までの地上活動を含む一切の飛行活動を禁止する。但し緊急やむを得ない場合は除く」という取り決めがされましたが、米軍は緊急やむを得ない場合を除くということを逆手にとって深夜、早朝の離着陸を合法化しています。夜間発着するのはC141BやC5Aなどの大型の輸送機やC9患者輸送機など爆音直下の騒音レベルが90、120ホンに達する航空機が多いのです。深夜は周りの騒音も消え、飛行機の爆音だけが異常に大きく感じられます。人間の耳は120ホン以上の騒音にさらされると聴力に障害を起こすとされていますから、まさに限界を越えた生活をしているのです。回数自体は日中よりは大幅に減りますが、夜中に数回の爆音で目がさめてしまったら、その晩は、ほとんど眠れない、あるいは疲れが十分にとれないのです。さらに戦争や軍事演習の際には夜間の発着が増え、眠れぬ夜が続くことになります。また、深夜・早朝にもエンジンの調整が頻繁に行なわれています。これは車でいう暖気運転でエンジンを数十分もいっぱ
いにふかし、断続的に2〜3時間続けて行なわれます。早朝5時前から行われ、約10キロも離れた秋川や国立・小平まで聞こえる轟音で、周辺では家の中にいても、耳がおかしくなるようなすさまじさです。このはかにも、早朝発進する輸送機やチャーター便のエンジンのコンプレッサーの音が朝4時頃から始まり、騒音計には40〜60ホンしか記録されなくとも、周辺が静かなために気になって起こされてしまうといった被害もあります。
 この爆音による健康への影響は、特に病人やお年寄り、子どもなど、弱いものに強い被害を与えます。また、目に見えるような健康被害がなくても、日常会話が妨害される、電話ができない、テレビやラジオの視聴が中断されるなど、日常生活への影響は深刻です。


4か月に1回のNLP

 横田基地では、米海軍空母「インディペンデンス」艦載機によるNLP(夜間離発着訓練)が4カ月に1回の割合で行われています。1994年には、ついに戦闘機によるNLPも行われました。防衛施設庁は、「硫黄島でのNLPによって横田などでのNLPは減少する」と豪語してきましたが結果は、減少するどころか逆に訓練日数がふえるなど強化の一途をたどつています。訓練は、自治体に無通告のまま行われることもあります。また、戦闘機が飛来する時は「曲技飛行」まがいの旋回を繰り返しています。
 戦闘機による訓練には「恐くて体が震える」など792件の苦情が周辺自治体に寄せられました。また、1995年のNLPには「うるさい。なんとかしてもらいたい。みんなで手を取り合ってでもなんとかしたい」「アメリカの大統領を連れて来い。冗談じやない」「なにをやっているんですか。いつまで続くのか」「9時すぎたのにいつまでやるのか」「あまりにひどいじやないですか。役所はなにをやっているのか」「妊娠中、この音は異常だ。このまま放置して置くのか」という抗議の声が福生市に寄せられています。

防音工事

 飛行直下には、約百万人を越える人々が住んでいます。
 政府は、人の健康の保護に資する上で維持することが望ましい航空機の爆音にかかわる基準として基準値を70W(WECPNL)と定めています。そしてこの基準を越えるところを「線引」とよばれる騒音地域として指定を行い、その区域のみを対象に防音工事を行っています。この防音工事には、指定された期日に区域内に居住していることが条件となり、新しく越してきた住宅は対象とならないなどさまざまな制約があります。また、トイレ、浴室、玄関は防音工事の対象から外されています。防音工事では、外音を防ぐために空調機と冷暖房機が取り付けられますが、この電気料はすべて個人負担です。また、防音サッシなどの修理費も個人負担で防衛庁が指定した業者しか修理工事は依頼できません。飛行直下には20を越える学校や大学、保育園があります。これらでは、飛行機が飛ぶと先生の声が聞こえなくなり、授業や保育がストップすることすらあります。落ち看いて試験勉強もできません。葬儀をしていてもお坊さんの読経が聞こえないこともありました。基地北側の瑞穂町では、飛行機の騒音がひどくて火災を報せる防災無線すら聞こえないため、「戸別受信機」が取り付けられています。


静かな夜を返せ-新横田基地公害訴訟

 1996年4月10日、横田基地周辺住民と飛行直下住民がアメリカと日本政府を相手に「夜間飛行差し止め」と損害賠償を求めて裁判を開始。原告は、東京・埼玉を含め、爆音直下の6000名という裁判史上はじめての大原告団です。アメリカ政府を相手とした訴訟は、マスコミを含め、内外から注目されましたが、横田基地の騒音公害を無視し、米軍優先の態度を押し通し、「日本の裁判には応じない。損害賠償の支払い責任は日本政府にある」と応訴を拒否。98年12月東京高裁は、米国に対する訴訟について控訴棄却の判決を下しました。
 そもそも、横田基地公害訴訟は、1976年から94年3月まで約18年間、横田基地周辺住民700余名が原告となり、「爆音のない静かな夜を返せ」と夜間飛行差止めと損害賠償を求めて国を被告としてたたかわれました。提訴当初の原告数は、148名でした。1981年1・2次訴訟判決では夜間差し止めは却下されましたが損害賠償を国に求める住民勝訴の判決が言い渡されました。1982年には、家族約600人が第3次訴訟を提訴しました。1987年の1・2次訴訟東京高裁の判決では、「国防や米軍基地だからといって他の行政より公共性が優越しているとはいえない」と安保を優先し、米軍基地を特別扱いしてきた国の主張が否定されました。
 1993年最高裁は、「国は横田基地における米軍機の飛行の違法状態を放置することは許されない。違法状態を解消する義務がある」「横田基地の米軍の飛行状態は住民に被害を与える違法なものである」として国の被害放置の姿勢を厳しく問いました。そして「国は被害住民に損害賠償を払う義務がある」とし被害住民は等しく損害賠償を受ける権利があることを明らかにしました。
 1993年11月東京高裁は、国に騒音被害の軽減努力を要求する「和解案」を原告と被告双方に提示しました。しかし、国側の抵抗により「和解」は決裂しました。こうしたなかで、国は日米合同委員会を30年ぶりに開催し、「午後10時から翌日午前6時まで地上活動を含む一切の飛行活動を禁止する」など盛り込んだ合意事項を確認しました。1994年第3次訴訟の東京高裁判決は、八王子地裁、1・2次訴訟東京高裁の判決を踏襲したものでした。この判決を双方が受け入れ、長きにわたる裁判闘争に幕がおろされたのです。18年間訴訟をたたかうなかで原告住民は、爆音によって実際に耳が聞こえにくくなってしまったことや高血圧などの健康障害、睡眠不足や子育てなど日常生活に大きな支障が出ていることや常に墜落の危険におびえて暮らさなければならないことなど訴えました。しかし、国は最後まで安保条約をたてにし、「耐えられるはずだ。がまんしなさい」と被害を認めようとしなかったのです。

国民いじめの安保条約の実態を告発

 この訴訟は、夜間飛行の差し止め請求を却下し、補償の範囲・金額を狭めるなどの点ではたいへん不十分なものでしたが、被害の実態についての原告の主張を認め、国側の「安保の公益性を考えれば被害は我慢すべき範囲」との主張を退け、日本裁判史上初めて、基地被害に対する国の責任を認めたのです。
 これは同時に、米軍の基地活動に違法性があることがはっきり認められたという意味で、画期的なものでした。また、横田基地の基地祭での曲技飛行も違法であるとの判断を示し、自衛隊もこれを断念せざるを得なくなったのです。
「静かな眠れる夜と住みよい生活環境を」という願いは人間として生きる最小限のごくあたりまえの要求です。この訴訟は、「静かな眠れる夜をかえせ」という一点で結集した運動であり、軍事行動反対や安保廃棄、基地撤去などをかかげてはいません。しかし、安保条約と基地が国民になにをもたらしてきたかを鋭く告発しているのがこの訴訟のたたかいです。
 
核も・基地もない21世紀
 基地の返還をめざして

 首都の人口密集地に巨大な横田基地が置かれ、首都の海の玄関には世界に例がないアメリカの軍艦が我がもの顔に往航している事態は都民の生活環境の発展、平和・安全、街づくりにとって大きな障害となっています。91年から開始された横田基地返還を求める自治体意見書は5区20市1町となり、東京都も96年11月(青島都知事)横田基地に起因する諸問題の対策と周辺対策の取り組みを強化するため「横田基地に関する東京都と周辺市町連絡協議会」を発足。基地内事故・事件、NLPなどへの抗議・要請をおこなうなどの取り組みをすすめています。また、東京都は、「渉外関係主要都道府県知事連絡会」を通じて、基地返還を国に要求しています。
 最近では、横田基地関連施設である「多摩サービス補助施設」(多摩市・稲城市)の一部道路返還による川崎街道拡幅工事の着工などもすすめています。
 いっぽう横田基地返還をもとめる都民の闘いは、基地の危険性を告発する運動、基地公害をなくす運動などと結んで、96年11月「横田基地撤去と基地被害をなくす共同行動連絡センター」が発足。基地撤去にむけ、抗議行動、シンポジウムと毎年11月に撤去のための集会を行っています。こうした横田基地返還、基地被害をなくす運動が官民ですすめられるようになり、NLPなどで第374米軍司令官ですら自粛要請を在日米軍司令官におこなうなど対応が変化してきています。


資料目次