白の波紋


 初めて抱いた、自分でも持て余すほどの感情だった。



 四時間目終了のチャイムが鳴って数分。どのクラスも騒がしくなる時間帯だ。
 机を三つずつ向かい合わせに並べて班にして、水で絞った台拭きでそれらを拭いていった。今日は俺がその当番で、他の班員は皆、早く給食を食べたいといったそわそわした様子で列に並んでいる。俺はそちらに目をやると、その中の一人に目をとめた。そいつは少し持ちにくそうにお盆を二つ持っている。
 皆が戻ってくる前に作業を終わらさなくてはならないので、視線を机に戻し、動作を速める。六つ目を拭き終え、使い終えた台拭きを片すためにもう一度水道に足を運ぶ。水の冷たさが、温まった空気の中で際立った。
 クラスに戻ると牛乳係りがちょうど俺の班に配っていたので、ご苦労様と言って席に着いた。その牛乳が目に留まる。水滴をまとった牛乳パックはせっかくきれいに拭いた机を濡らしていた。俺は顔を顰めながらティッシュを二枚引き抜いて一枚を自分の牛乳の下に、もう一枚を向かいの席のそれの下に置いた。

「本っ当、細かいよなー、お前って」

 不意に影が差して、上から声が聞こえた。振り向けば、お盆を二つ持った男子が立っていた。いつの間に近づいたんだろうか。

「…笑えばいいだろ?中途半端な顔してるな。気持ち悪い」
「はいはい。班長様」

 そう言うお前は副班だろうが。ぐっと言葉を飲み込んで差し出された給食を受け取った。付き合いが二年目にもなると、いい加減踏み止まるところを覚えてくる。

「毎日どんよりした天気だよな」

 向かいの席に腰を下ろしながら副班兼友人の富岡は呟いた。
 富岡は席に着けば窓が見える位置になる。灰色の雲が空を覆いつくしているのが目に入ったんだろう。

「六月だからな」

 梅雨は好きじゃない。肌に張り付く湿った空気や連日続く雨は俺の気持ちを降下させる。



「なー海堂。お前中学どこ行く?」

 行儀悪くストローを齧りながら訊いてくる富岡の表情は、いつもと違ってどこか影がある。俺はそれを指摘せず質問にだけ答えた。

「今のところは、このまま公立」
「あ、海堂くんも不動峰中学?うちのクラスって私立受ける子少ないんだよー」
「…そうなのか?」

 俺の発言を拾って、隣の佐々木が話に入ってきた。けど、何でうちのクラスの進路を知っているのか。

「あー…、希望調査した時に訊いて回ってたもんな」

 疑問は富岡が解決してくれた。

「まあね。だって気になるじゃない」
「‥良かったな。海堂が公立で」
「?」
「べっ、べべべ別に?」
「何の話だ?」

 話が見えてこなくて佐々木に訊くと、そっぽを向かれた。富岡を見れば何故かにやにやと嫌な笑いを浮かべている。

「……何だよ?」
「別にー?」

 ムカつくことこの上ない。俺は机の下で奴の足を軽く蹴ってやった。

「痛っ!‥お前拗ねんなよ」
「誰が拗ねるんだ、誰が!」

 ドンピシャで言い当てられて顔が火照る。誰だって会話の中で疎外感を感じたらいい気分はしないだろ。睨みつけると富岡は足を抱えながら笑った。俺に睨まれて笑ってられる奴はこいつくらいだ。

「仕方ねーな。今度の日曜、良い所に連れてってやるよ」
「意味分かんねぇよ!」

 脈絡の無い会話。けれども俺は嫌いじゃなかった。


 俺たちは今、小六で。人によっては受験を控えていて。
 そしてその中にはきっと富岡も含まれているのだと、俺は感じ取ってしまっていたんだ。






 半分冗談だと流していたのに、富岡は日曜の朝、俺の家に押し掛けると俺を連れ出した。
 母さんはのほほんと「行ってらっしゃーい。5時までには戻ってくるのよ」と言って玄関先で俺を見送った。
 お願いだから拉致られる息子を見て、仲が良い友達がいて良かったわねとか言わないでくれ。



「着いたぞ、海堂。いい加減観念しろって」
「…お前なぁ!」

 バスから降りると、新緑が目に飛び込んできた。ここ数日ぐずついていた天気も今日は晴れやかだ。

「で、ここで何するってんだ?」

 このバス停で降りたのは俺たちだけではなかった。俺たちより少し年上な感じがする少年少女や、家族連れがいそいそと公園らしきところへ入って行くのを今しがた見送ったのだ。

「応援」
「応援って…誰の?」
「俺の兄ちゃん。今日はここで中学テニスの大会があるんだ」

 バスの中では訊いても返ってこなかった答えが今は返ってきた。
 けれども、何故俺が富岡の兄さんのテニスの応援をしなきゃならないのか分からない。第一、テニスのルールなんて少ししか知らないから、すぐに飽きてしまうことは目に見えていた。それなのに、どうして富岡は俺をここに連れてきたのだろう。
 考え込んでいると、いつの間にか背後に回っていた富岡に背中を押された。俺は否応なしに入り口に向かって歩き出してしまう。

「な、何だよ、お前!」
「だって海堂、俺がテニススクールに入ったって言ったら興味持ってたじゃん」

 そういえばこいつはスクールに通っていて、習いたての頃に俺にルールを大雑把に説明していたことを思い出した。

「百聞は一見に如かずって言うし、俺は兄ちゃんのテニスを応援できる。一石二鳥!」

 要するに、誰かと一緒に行ってほしかったんだな。もしくは兄自慢がしたかったか。俺は溜息を吐いた。来てしまったものは仕方ない。

「…自分で歩けるから」
「じゃあ急ごう!最初の方の試合だって言ってたから」

 少し小走りになっている富岡を見て、俺はさっきまで気乗りしてなかったのに、妙に楽しみになった。



 大会は休日を利用して行われているためか思ったより人が多く、富岡兄が試合するコートまで辿り着くのは一苦労だった。何より、もう試合が始まっているところもあって、そばを通る時はポイントが決まったときにしか動けないのが辛い。
 大した距離じゃなかったはずなのに思ったより時間が掛かったのは仕方ないことなんだろう。

「あ、兄ちゃん!」

 着いた時にはちょうど試合が始まるところで、富岡兄はコートに一人で立っていた。どことなく風貌が似ているし、弟の声に反応して首をこちらに向けたからその人だと分かった。けれど呼び掛けに応じはしなく、すぐさま首をもとの位置に戻してしまった。俺は気になって隣を見たが、それを気にした風はなかった。

「邪魔しちゃったな」

 独り言を呟きながらフェンスに近寄ったので、俺も後を追う。
 コートにもう一人入ってきて、互いに挨拶をする。試合開始だ。


 試合は、チャンネルを回していて偶然観るプロの試合とは比べ物にならないが、俺とそう年が違わない奴らがやるにしてはレベルが高かったと思う。
 ルールをよく知らない俺に富岡は小声で解説してくれた。そのおかげでつまらなくはなかった。もともとスポーツは全般好きだったことも関係しているのだろう。
 けれど、面白いかと問われたら、返答に詰まる。
 富岡は途中から兄の試合に夢中になってしまって俺への解説は止まってしまった。
 俺はその横でバレないようにこっそり溜息を吐いた。
 つまらなくはない。けれども面白くもない。
 何かが足りないと感じた。俺は一体何をそんなに期待しているのだろう。視線だけ試合に向けながら、俺はそんなことを自分に問いかけていた。


 突然、少し離れた隣のコートから今までにない歓声が沸いた。青空に響くほどだった。
 どこかの学校が試合に勝ったのだろうか。それともすごいプレイヤーが試合をしているのだろうか。
 無性に気になった俺は、富岡に観てくると口早に告げると返事を待たずに駆け出した。何か言っていたような気がしたが、聞こえないふりをした。




 隣はさっきまで観戦していた試合より、人が多く集まっていた。見ると保護者らしき人や対戦する二校の中学生の他にもまちまちのジャージを着た中学生やカメラを構えている大人やメモを取っている大人がいる。それなりにきちっとした恰好のその人たちは、もしかして記者なんだろうか。
 同じ中学生大会の中でも、注目されている試合とそうでないものがあることに僅かながら驚いていた。
 観戦している人たちの邪魔にならないよう努めてコートに近寄ると、俺より一回りくらいでかい体格で、基本的な作りは同じだが色が三種類ある体操着を着た男子たちが目に付くようになった。きっと今試合をしているどちらかの中学の生徒なんだろうなと思った。
 こんなにも注目されている試合は一体どんなものなんだろう。
 俺は比較的人が密集していない場所を探した。端が少し空いているようなので、そっとそこに移動して、ようやく俺は試合に目をやった。

 鮮やかな黄色が、青空に映えて、相手方のコートに突き刺さる。

 俺は息を呑んだ。
 指先からボールが離れた瞬間から相手コートに入るまで、一つの芸術作品を見ているようだった。
 そう思ったのは俺だけではないらしく、周りの奴らも先程の様子とは打って変わって静かに試合に魅入っていた。
 コートに立っているのは、多分俺とあまり変わらない年の男子だ。もしかするとまだ一年かもしれない。
 そのプレイヤーから繰り出されるサーブやリターン、いや、それだけではなくすべてがきれいだった。
 きれいという言葉が合っているのかどうか分からないが、とにかく非の打ち所の無いようなテニスだったんだ。
 けれども俺が一番惹かれたのはたぶん、あの瞳だ。涼やかな立ち振る舞いを裏切る、闘志を宿した瞳。
 彼はもっとも完璧に近く、そして、それに奢らずあと僅かを埋めようと努力できる人間なんだと直感した。



 ほんの数十分の出来事。
 焼きついたのは、青白赤のトリコロール。





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