進む勇気、背中にジレンマ


 空を覆い尽くした灰色が、まるで俺の心の中までも覆っているかのいるかのように思えてしまって、深い溜息を吐いた。
 何も珍しい現象ではない。
 二月ならば関東だって他の地域と同じように雪が降る。
 冬の醍醐味だと普段なら思っていただろうが、今日という日だけは歓迎できない。
 薄っすら積もった雪と先日の雪が解けて凍ってできた氷の所為で、今日何人の人が足を滑らせたことだろう。
 不覚にも、俺も尻餅は免れたものの、朝の時点で二回コケた。
 これから戦場へ向かうというのに、なんとも縁起の悪い出だしだった。

 今日は青春学園中等部の一般入試日。
 結果がどうであれ、俺の人生の分岐点になる私立受験の当日だ。




 去年の夏。
 俺は友達に連れられて行った中学テニスの大会で、胸の真ん中を抉り取られるような強烈な衝撃を受けた。

 然程テニスに興味を持っていなかった俺の内に鮮烈な爪痕を残していった、ある同年代の男子のプレイ。
 流水のような涼やかなプレイスタイルとそれを裏切る燃えるような瞳に、気がつけば俺はその試合に釘付けになっていた。
 思わず握り締めていた手を開いたら、掌にくっきりと爪痕がついていたほどに。
 その試合は実力が均衡する者同士が繰り広げ、観衆に手に汗握らせるようなシーソーゲームと呼ばれるものではなかった。
 それどころか1ゲームも終わらないうちに両者の力量が知れ勝敗が見えていた。
 彼は、絶対的な強さを内に秘めていた。
 俺はそんな彼の姿に魅せられて、つよく憧れて、少しでも近づきたくて。
 どうしたら近づけるか考えたら答えは一つしか出てこなかった。
 公立の中学じゃなくて私立の、彼の通う青春学園中等部に入り、そこで身近に目標を感じながらテニスをする。
 咄嗟に近くに立っていた人に彼の通う中学を尋ねて即座に決めた、俺の中の決定事項だ。




 受験は甘くはない。
 私立に入るために何年も勉強してきた奴らの中にいきなり飛び込もうっていうんだから、始めは皆渋い顔をした。  落ちたときの俺のショックを考えたんだろう。俺が親でもいい顔はしないと思う。
 けれど俺はどうしても青学に入りたかったから、一夏かけてじっくり両親を落とした。
 勉強はあの日からずっとしていた。夏期講習も行かせてもらった。夏休みの宿題も継続的にやらなきゃいけない課題以外は早くに終わらせた。
 そうやっていろんなことをある期間続けてきて、俺の姿勢が変わらないと知るとようやく両親は首を縦に振ってくれた。担任も。
 まあ、そこからが本当に大変だったんだが、青学に入るチャンスを手に入れた俺はますますやる気と集中力が湧いて、今日を迎えられたという訳だ。チャンスが与えられなくちゃ話にならない。

 けれど、けれどだ。
 今日試験と面接を受けてみて、緊張と不安に押し潰されそうな自分がいることに漸く気づいた。
 似たような問題を練習では解けたはずなのに、妙に手間取ったり、漢字が出てこなかったり、面接なんて、自分が何を喋ったのかさえ覚えていない。
 そんなガチガチの受験で、自信を持てるはずがない。
 あんなに青学に入るって決意を固めてきたのに、そんなもの根底からガラガラと崩れ去ってしまった。

(……どうしよう……帰りたくねぇ…)
 さっき家に電話を入れたら2コールで母さんが出た。
「寒い中頑張ったね。ビーフシチューを作って待ってるわ」と言った声音がいつもより優しくて、情けないことに泣きたくなってしまった。
 母さんの作る、肉がとろとろに柔らかいビーフシチューは好物だけど。冷えた体を熱いシャワーで温めたいけど。
 こんな情けない面で帰ったらダメな気がした。
 応援してくれた家族にも、受験することを選択した自分にも、すごく失礼だ。


 とぼとぼと、普段の俺と違うゆっくりなペースで暗がりを歩く。
 街灯の光が眩しく感じて、わざと暗い道を選んでいたら、気がつくといつの間にか知らない道を歩いていた。
 腕時計に目をやるとそんなに時間は経っていないから、とんでもないところに迷い込んだ訳ではないだろう。
 少しだけ歩いてきた道を振り返ってみるが、足は戻らなかった。
(このまま進んだら少なくとも帰る時間を遅らせられる……)
 いつもの俺なら考えもしない。
 そんなおかしな気持ちになっていると、何所からか錆びれた金属が軋む音が聞こえてきた。
 キィ、キィ、と一定のリズムを刻むこの音は、大抵何所の公園にでもあるアレの音だろう。
 何となく、俺は足を音が聞こえてくる方向に向けた。

 吸い寄せられるように。


 金属の擦れる音だけを頼りにその場所を探すと、それほど大きくなく、植木の背丈が低いために見通しが良い公園が住宅地の間にあった。
 俺は入り口に立って中を見渡した。
 公園の遊具もいたってシンプルで、滑り台と砂場とブランコだけのようだ。
 公園内を照らすのはガス燈で、柔らかな光を放っている。砂場が見える位置にあるベンチには誰かが忘れていったのだろう手袋が片方ぽつんとあった。

(昔、葉末の手袋を探しに真っ暗な中に飛び出してったこともあったっけな‥)
 俺とお揃いだったから失くしたのが余計に悲しくて泣く弟が可愛くて、どうにか見つけてやりたいという思いでいっぱいだった。
 昼間遊んでいた公園の滑り台の手摺りに掛けてあるのを発見して持ち帰ったのだが、玄関で俺の帰りを待っていた母さんに叱られた。
 探し物をするといっても、小学校も上がりたての自分が表を出歩いて良い時間じゃなかったからだ。  あの日も今日のように寒い日だった。けれど俺はコート一枚羽織っただけで、手袋もマフラーもしていなかった。
(そりゃ誰だって心配するよな)
 あの日の自分の行動を思い返して苦笑したが、今の状況も然程変わっちゃいないことに俺は気づかなかった。





→Next Pege