塩辛い追い風


 どうしよう。
 ただその言葉だけが頭を占めていて、先に進まない。

 昼休みも終盤、俺は保健室の扉の前で葛藤していた。
 眼前には扉一枚。されど一枚。俺の世界と彼の世界を隔てる大きな壁だ。
 しかも部屋の中にいる人物が分かりきっているので更に開けにくい。
 一際低い、猫が唸ったような声は部屋の主である海堂先生だ。賑やかで弾むような声は菊丸で、落ち着いているが不思議と通る声は不二。
 そして。菊丸と張って賑やかで、だけどしっかりと響く声は、桃城先生だ。

   菊丸たちだけならまだ躊躇しなかった。
 海堂先生については今まで散々揶揄われてきたから、今更だと開き直れる。
 問題は桃城先生が一緒にいることだ。
 テニス部の副顧問としての彼には俺も一目置いている。青学テニス部のOBとして、ムードメイカーとして、教師として。年が近いということもあって他の教師よりは打ち解けやすい。
 だけど、海堂先生に関わる者としては、はっきり言って好い気がしない。
 漏れ聞く彼らの関係は、俺の心を鬱々とさせる。

「……何、今更尻込みしてるんだろうな…」

 もともと年齢や立場が違うんだ。俺が知らない時間があるのは当然のこと。
 そう頭では理解しているつもりでも、感情が思うように受け入れてくれない。
 結果、辿り着く言葉は。どうしよう、だ。

「ごちそーさん!お袋さんにヨロシクなっ!」

 今日はもう引き返そうと思って、踵を返したとき。後ろからガラッと戸がスライドする音と同時に桃城先生の声が聞こえた。
 俺は慌てて振り向いた。

「お?…乾」
「こんにちは。桃城先生」
「よぉ、乾!どうしたんだ?こんなとこで」
「図書室に行った帰りなんですが、保健室から随分賑やかな声がしていたもので」

 まるで台本を読み上げるようにスラスラと出てきた言葉に偽りはない。こういう場合も想定して、最初から作り上げていた。
 桃城先生は片眉を上げたが、俺が脇に抱えている本を見て納得したらしい。
 人好きする笑顔を見せて、そうかと言った。

「おい、何入り口でぐずぐずしてやがんだ?」
「へぇへぇ、すぐに退きますよー」

 さっと桃城先生が退くと、後ろに海堂先生が剣呑に立っていた。

「乾?」

 少し目を見開いて俺を呼ぶ。
 それだけで俺は、全てのことがどうでもよくなってしまう。

「なんだか楽しそうな声が廊下にまで聞こえてましたよ」

 自分でも声が甘くなっているのに気づいたくらいだから、桃城先生にはバレたかもしれない。

「あんまり騒いでっとその内注意されちまうな」
「バカが。てめぇが一番うるせぇんだよ!いい加減そのバカでかい声抑えろっての」
「はっ!俺の声の良さがお前には分からないかねぇ?元気になる声って過去何度も言われたことあんだぜ?」
「そいつ耳掃除してたか?よく分からねぇが、良い声っていうのは乾みたいな奴のことを言うんじゃねぇのか」
「え……?」

 鮮やかに攫われたはずの海堂先生の注意が、再び、しかも唐突に俺に向いて戸惑うことしかできない。
(海堂先生が、俺の声を……褒めた?)

「なんだよ海堂。俺より乾の肩持つってのか!?」
「教師の発言として今のはどうなんだ?ってか、いい加減授業の準備しやがれ!」
「海堂!俺の質問に答えろよっ!」

 うるせぇだとか職場で私情を言うなとか。海堂先生は言いながら俺の腕を掴み、そのまま保健室に引き摺り込んだ。
 扉の外では桃城先生が「海堂のアホー!」と捨て台詞を残してバタバタと去っていった。
 そして俺は。

「みっともねぇとこ見せて悪いな。ったく、ちっとも成長しねぇ…」

 片手で額を覆う海堂先生は疲れたように笑った。

「…先生」
「何だ?」

 どうして話題を俺に振ったのか、とか。未だに掴まれたままの腕には気づいているのか、とか。
 どうしてそんな風に笑うのか、とか。
 訊きたいことはたくさんあるのに、どれも咽喉から上に上がってこない。
 代わりに出てくるのは意味も無く呼ぶ言葉で。
 俺は保健室の前に佇んでいたときのように途方に暮れて。どうしよう、と心の中で繰り返し呟くしかない。

「………しおらしい乾って初めてみちゃったにゃ」
「乾、僕たちがいること忘れてない?」
「……っ!!!」

 一生の不覚だと思った。
 そうだ、桃城先生が出て行ってもこいつらが残っていたんだ。
 ギギギッとからくり人形のように首を巡らせば、ソファーの上で二人が寛いでいる。それだけならまだしも、俺がそっちを向いた瞬間カシャという音が聞こえた。携帯のカメラだ。

「不二っ!?お前、今!」

 慌てたのは俺だけではない。海堂先生が血相を変えて不二に詰め寄る。

「乾を撮りました。言いませんでしたっけ?僕、写真が趣味なんです」
「写真が趣味だろうがなかろうが!被写体に断りもなく撮っていいわけないだろう!今すぐ消せ!」

 さっきの桃城先生を怒鳴るときの比ではなく厳しく、海堂先生は声を張り上げた。平均より低い声は、大気を震わせる雷のようだった。
 その剣幕に流石の不二も瞠目する。

「悪戯で済まされないことがあることは、もう分かってるはずだろう?」
「………すみません。羽目を外しすぎました」
「分かったら、消せ」
「はい」

 不二が携帯を操作して、画像を消す。
 その様子を鋭い視線で見ていた海堂先生も携帯を閉じると同時に張り詰めていた空気を緩めていった。

「ごめんね。乾。そんな悪気があって撮ったわけじゃなかったんだ」
「…ああ。分かってる」
「怒鳴ったりして悪かったな。さあ、もう授業だ。早く教室戻れ」
「……海堂センセ。あの、また来てもいい?」

 驚いて固まっていた菊丸が恐る恐る訊ねると、海堂先生は菊丸以上に驚いていた。

 ああ、この人は。いつだって。

「………誰も来んなって、言ってねぇだろ」

 不器用で。優しくて。その分自分を傷つけて。

 ぶっきらぼうな海堂先生の言葉を背に俺たちは保健室をあとにした。




「……こ、怖かった〜〜〜っ!!!」

 二階に上がったところで菊丸がしゃがみ込んで言った。
 怒られた本人もいつものようには笑えないようで、不自然な笑顔で肯定した。

「僕もあんなに激昂するとは思ってなかった。…思ってたよりずっと先生は優しいんだね」
「そう、だな…」

 生徒を守るために。生徒の過ちを正すために。
 損得抜きで本気でぶつかってくれる人。
 もっと穏やかな方法もあっただろうに、進んで悪役を買って出てしまうなんて。
 彼は今までどうやって過ごしてきたのだろう。また一つ、知りたいことができてしまった。

「…乾。海堂先生のこと、嫌いになっちゃった?」

 菊丸が心配そうに見上げてくる中、乾は強く首を横に振った。
 嫌いになんてなれるわけがない。漸く自分で認められたこの想いが。そうそう簡単に消えることはないだろう。きっと、好きになる一方だ。

「乾、携帯出して。赤外線使えるよね?」
「…まさか、さっきの写真!」
「メモリーに保存してるのは消してないんだ」

 平然と放った事実。ああ、不二ってこういう男だったよなあ。
 俺は呆れながらも携帯を差し出した。

「これでよし。海堂先生には悪いけど、君には必要だと思ったから」
「俺に?」

 送られてきた写真を見た瞬間、息を呑まずにいられなかった。

「へぇー、よく撮れてるじゃん!さすが不二!」
「まあね。いい構図だと思わない?」

 少々焦り気味の俺がカメラを向いている。
 ドアに凭れ掛かった海堂先生の右手は額から下ろしかけで、その合間からレンズを直視している。
 そんな俺たちの間で。
 海堂先生の手が、俺の袖を掴んでいたのだ。

「客観的に見てみた感想は?」

 丁寧にゆっくりとした動作で、俺はその写真に保護をかけた。
 これは、大切な大切な一瞬だ。

「恥ずかしいよ」

 どんなに焦ってもその腕を振りほどけない俺。
 俺がどんなに海堂先生のことを好きか、証明されたような気がして。

「漸く理解してもらえたようで僕らは嬉しいよ」



 どうしても振り払えない想いとは、何故こんなにも狂おしく愛しいのだろう。




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