塩辛い追い風


「乾、少し良いか」

部室から出るとすぐに硬質な声に呼び止められた。その声音に何か失態を犯したかと瞬時に思考を巡らすが、記憶にない。
疑問に思っていると、ドアの横の壁に凭れていた同級生は重苦しい空気を纏ったまま、ゆっくりと近づいてきた。

「‥何か用か、手塚。あまり時間がないんだけど」

腕時計の針は八時を指そうとしていた。

俺は、ゴールデンウィーク明けから突如始められた海堂先生の日課に一度もお目にかかれていない。
それは部活の朝練があるからなのだが、今日は違った。三年生が進路指導を兼ねた朝会があるためにいつもより早く切り上げたからだ。
俺にとってそれは、又とないチャンス。今日なら最悪でも引き上げ途中の彼に会えるとデータを弾き出して、淡い期待を胸に着替えの手を早めた。
それなのに。こんなところで足止めとは。

「乾〜っ!おっさき〜!!」
「じゃあね、乾に手塚。ごゆっくり」

俺の次に部室を出た菊丸と不二は、それぞれ俺の両肩をぽんと叩いて駆けていく。抜き去る時に見せた笑顔は悪魔だった。
おそらく考えていることは俺と一緒だ。そして奴らは海堂先生に会えるだろう。
俺は衝動的に追いかけたくなったが、手塚の視線からは逃れられなかった。

「‥‥で?用件は?」

一段と低くなった声に気付いたのか、手塚は視線を外した。
少しあって不可解な言葉を口にする。

「え?」
「‥だから、すまなかったと言っている」
「いや、そうじゃなくて。何に対して謝っているんだ?理由が分からないんだが‥‥」
「それは‥‥その、だな‥‥‥」

手塚にしては歯切れが悪い。
そうこうしている内に、着替え終わった部員が次々と俺たちの脇をすり抜けていく。最後に鍵当番の大石が戸締りをして、去っていった。遅刻するなよ、と爽やかに忠告しながら。

「‥‥そんなに人に聞かれたくない内容なのか?だったら場所を考慮しろよ」
「すまない。俺としたことが、謝罪することにばかり囚われていた‥‥」
「その謝罪って何のことなんだ?」

荷物を担ぎ直して何度目かになる質問をした。
手塚は部員が横を通る度に口を噤んでしまい、話が一向に前に進まなかったのだ。
時計を見れば長針が2を指そうとしていた。
海堂先生に会える確立はゼロ。おまけに、クラスの朝の会に間に合うにも悠長に話している時間はない。

「‥先日お前に渡した、手紙についてだ。お前の事だ。筆跡で誰が書いたか分かっているのだろう?」
「ああ‥‥まあ、予想はついたよ」

手紙の内容を思い出して思わず渋い顔をした俺を見て、手塚は思い溜息を吐き出した。

「言い訳になるが‥‥あれを書いたのは、不二に最近の乾に対する批評を書けと強要されたからだ。あの時のお前は誰がどう注意しても暖簾に腕押しの状態だったから、俺も少し苛立っていたことも少なからず筆を取ったことに原因する。けれど」

手塚は一旦区切った。

「‥‥今、冷えた頭で考えると、大分私情に傾いた意見だった。反省している」
「‥手塚が思うほど感情的な意見じゃなかったと思うけど。確かに注意力散漫だったし。それを言ったら、不二と菊丸に謝らせたいよ。あいつら容赦なくあることないこと書き殴ってくれてさ」
「あいつらと比較するな!」
「はは、確かにな」
「しかし、失礼な文章であったことは確かだ。だから、こうして詫びている」

おそらく、手塚がここまで拘るのは俺が他人に踏み込まれる事を何より恐れていることを理解しているからだろう。
伊達にジュニア時代から俺を知っている人物の一人ではない。

「一応、受け取っておくよ」

俺が頷くと、手塚は以後気をつけると言って、何事もなかったかのように去ろうとした。
そんな手塚に少しの興味心が湧く。
俺は手塚のピンと張った背中に向かって質問した。

「意固地になってるって、何故そう思った?」

手塚はゆっくりと振り返った。

「手紙にそう書いただろ?忘れたか?」
「覚えている」

予鈴が鳴った。
けれども俺は手塚の答えをただ待っていた。
自分で自分を客観的に見ることは難しい。だから、俺の様子を報告したあの手紙は貴重な資料だ。たとえ、心を暴かれることにつよい恐怖を抱いたとしても。
それでも、一歩を踏み出す糧になる。

「‥変わることへの躊躇いと、惹かれることへの困惑が見えた。当たり前だが、人間は一人では生きていけないぞ、乾」

本当は分かっているんだろうと、問われた気がした。
俺は何も言えずテニスコートに目を向けた。

やはり周りの方が俺の変化に目敏いようだ。




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