泣き虫な雲


レギュラーの外周タイムを計ってノートに個別に記入していたところに、ふと影が差した。

「なんか久しぶりに見るなあ。乾がそうして真剣にデータ取ってるとこ」
「‥そうか?」

よっ、とタオルで頭をガシガシ拭きながら俺の隣に座った河村は穏やかに笑う。
俺は曖昧に返答して続きを書き綴っていった。
他人に言われずとも、自覚はあった。ここ一月の俺はあの人の所為で調子が狂いっぱなしだった。

「んー‥少し集中力が欠けてた、って言えばいかな?でも、ゴールデンウィーク辺りからは調子が好いみたいだね。新しい環境にようやく慣れてきたって感じ?」
「確かに、ちょっと環境が変わってガラにもなく戸惑っていた節はあるな。そんなに顕著だったか?」
「俺たちくらいだと思うよ。気づいたのは」
「‥‥そう」

手塚と大石と不二と菊丸。
暗にそう言っている河村の返事に俺は少しだけ溜息が吐きたい心境になる。 例の不二のいらんお節介の所為で予想はついていたが、改めて本人の一人の口からそう言われると複雑だ。
周りの奴らの方が、俺よりも俺のことを知っていると言われたようなものだったから。
それでも、気づいてくれたことに不快感はない。

「最近、よく眠れるんだ」

唐突にぽつりと洩らした近況に河村は無言の相槌を打つ。
そうされることで俺は自分のことを少しだけ素直に話せるようになることを河村は知っていて行っているのだろうか。

「学校来て、部活して、自主練して、家でデータを纏めて。そしてひと段落ついた頃に自然と瞼が落ちる」

他人にとって当たり前のことでも、俺にとっては驚くべきことだった。
安心して眠りにつくことがどんなに難しいことか。生まれてこの方そのテーマが頭から離れたことはない。

「だから次の日にもちゃんと目が覚めて、朝練ギリギリの時間に登校しなくてすんでるんだよね」

手を休めて空を仰げば、一面の青が広がる。 俺は眩しさに目を閉じた。

「そっか。良かった」

カシャンと金網が揺れる音がして、河村が寄り掛かったのが分かった。
今までは目を閉じたらすべてを遮断することができたのに、耳がたくさんの音を拾い、肌がその場の空気を感じ、視覚以外のあらゆる感覚器官が働いて情報を集めている。
独りになることは容易い。けれど、それでは人は生きてはいけない。
歩んできた過去がどんなものでも受け止めていく強さが俺には必要なのだ。

最初にそれを気づかせてくれた人物と再び会えたことは、きっと偶然なんかじゃない。

「‥心配かけたみたいだな。ありがとう」

ここ数年右往左往していた心が、あの人と過ごした小一時間の間に定まった。 少しの安定は同じだけの余裕を生み、こうして心配する友人の気持ちに感謝できるようになった。

「‥‥‥乾」

温かな響きで俺の名を呟く河村は、下がり気味の男らしい眉を更に下げてやさしい表情をしているのだろう。 だけどさすがにそれを見ることはできそうにない。矛持と照れ臭さが邪魔をした。

俺は河村に習ってフェンスに寄り掛かる。
五月の夏の風がテニスコートを駆け、俺の頬をしっかりしろとばかりに叩いた。





変わらない瞳のつよさ。芯の強い、けれどあまり饒舌じゃない言葉。
最初は、また挫けそうになっていた俺を見つけられそうで焦った。
だけどその反面、あの人が他の奴らと関わる姿を見たくないと思い、あの人と関わるすべての奴らに嫉妬した。
六年前に俺を導いてくれたようにもう一度俺の道を照らしてほしいと、俺は心の何所かで願っていたんだ。


朝練を終えて教室へ向かうと、廊下が騒がしかった。 二年の廊下だけじゃないので学校全体という表現が正しい。
俺は不思議に思いながらも出入り口の桟に気をつけながら教室い足を踏み入れた。

「乾。お前、もう知ってるか?」

席に着くなり前に座っているクラスメイトが話しかけてきた。 瞳は面白いことを見つけたというように悪戯っぽく輝いていて、俺はあまりいい気はしなかった。 どうせ碌なことじゃない。

「何を?今日はギリギリまで朝練だったんだ」
「うげぇ〜‥。テニス部ってちょっと練習しすぎじゃねぇ?」
「俺入部しなくて正解だったぜ」

うんざりしている二人は帰宅部だ。わざと制服を崩して着ることに美を感じる俺には理解できない部分を持つ。

「大会が近いから気合が入ってるんだよ」

テニスバッグから一時間目の教科の教科書とノート、筆箱を取り出しながら一応言い訳みたいなことを言う。

「ま、それはそれとして」
「情報通の乾が知らないとはなぁ」
「興味がないことには疎いよ、俺」

そう告白すると、二人は目を大きく開いた。
そんなに驚くことかと呆れる。 まあ、俺のイメージなんてそんなものか、とも思った。

「そっか‥。乾、海堂先生のことになると話に混ざってこなかったもんな」

納得とばかりに呟いた言葉に俺は過剰に反応してしまった。
(……海堂先生!?)

「海堂先生がどうかしたのか!?」
「うわ、ちょっと乾!落ち着けって!」

気づくと俺は立ち上がって詰問していた。
190pに近い俺に上から詰め寄られては圧迫感を感じざるをえない。
どうどうと言いながら、もう一人が俺の肩を掴んで無理矢理椅子に座り直させた。

「何だよ。興味ないんじゃなかったのか?」
「なくはない。どうでもいいから早く教えてくれ」

どうしてあの人のことになると過剰に反応するかな‥‥。 などと考えなくても既に答えは出かけている。 とにかく今は情報を聞くことが先決だ。

「海堂先生、今朝校門に立ってらしたのよ」
「え?」

二人が答えるより早く。
俺たちの会話を聞いていたのか、少し離れた席にいた女子が答えを教えてくれた。
俺はそれだけじゃ上手く事態が飲み込めずにいると、今度はもっと具体的に話し出した。

「朝の挨拶活動に加わった‥というか、個人的なのかな?ともかく、正門の前に立って生徒一人ひとりに声をかけていらしたの。 6組の高橋君だったかが先生に声をかけたときとか、着任式と違った感じに見えて、皆びっくりしてるのよ」

挨拶活動?皆があの人に注目している?
理解しがたい内容がぽんぽん飛び出してきて俺の頭の中を駆け巡る。
ダメだ。そんなの。また俺が追いつけないところまで行ってしまう。
必死で手を伸ばすのに届かない、姿が小さく見えるだけの遠い距離。

「なんだ。そんなことか」

努めてそっけなく振る舞い、激情をなんとか飲み下す。

「なんだよ。やっぱり興味ないんじゃんか」

興味がないんじゃない。聞きたくないんだ。できれば事前にあの人の口から教えてもらいたかったと、叶わない願いすら抱いている。

俺とあの人の間には、生徒と教師という関係以外、特別なものは存在しないのにも関わらず。





只今外出中。

ドアに掛けられていたホワイトボードに殴り書きではない丁寧な文字が書かれていた。
俺はほっとしたような残念なような複雑な気持ちでテニスバッグを担ぎ直した。
会ったところで何を言っていいのか、整理がつかない。 勢いで保健室まで来てしまったが、まとまらない言葉をぶつけても自分の醜い部分を晒すだけでなんの得もない。
溜息が出た。

文字が変わる訳ではないのにもう一度確認するようにホワイトボードを見ると、「急病人なら誰先生に鍵を借りろ」とか相談ごとなら「書置きだけでもどうぞ」とかそんなことも書かれていて細やかな気遣いが見える。
もとからあの人はそういう人だと俺は知っていた。
なのに、それを見抜けないで文句を言っていた奴らが、たかだか挨拶したときの印象が違うからと言って騒ぎ立てるのはどうしても納得いかない。

「ちょっと優しそうに見えた」
「よく見ればスタイルが良い」
「不器用なだけかも」
「最初からそうじゃないかと気づいてた」

どれもこれも耳に煩わしかった。
上辺だけのあの人を見ていたくせに。今更。
まるで呪いのように俺に纏わりついてくる言葉の渦。これはきっと。独占欲。

少し震える手を伸ばしてペンを掴む。キャップを外して用件の欄に一言書いた。
『また来ます』
そろそろ部活に出ないといけない。でないとまた好き勝手な詮索をし出すに決まっている。

「乾?」
「‥っ!」

連休前に聞いたきりの低く重い声が、俺の名を呼んだ。
俺は弾かれたように振り向き、その人物を確認すると、自分でも驚くくらい掠れた声でその人の名を口にする。

「テニス頑張ってるって聞いた。‥今日は部活は?」
「はい‥あります」
「そうか」

気づいただろうに、海堂先生はそれには触れず、日常的な会話を振り近づいてきた。 白衣のポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込み、ぐるりと回転させる。ドアが開いた。
海堂先生は室内に入ると電気を点けて俺を振り返る。
ふと、朝に想像した距離感を思い出してバッグを握る手に力を込めた。

「じゃあ、あんまり時間がねぇけど、ゆっくりしていけ」

やさしい命令を下され、俺は従うしか選択肢を持たない。
一歩踏み出せば、そこは海堂先生の領域。入ることを許されているような気がして少しだけ気分が上向いた。


言いたいことは何一つ言えないけれど、この居心地の好い空気を乱したくはないから。

テニスバッグを肩から下ろし、ドアに一番近い椅子に腰掛けた。




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