泣き虫な雲


「‥おはよう」

俺の前を生徒たちが驚きに目を見開いて横切っていく。
そそくさと逃げていく生徒もいて、自分の今までの行いを振り返って気が滅入る。
現実から目を逸らしてきた結果がこれだ。 自分の主観で動いて、生徒たちの安息の場を奪ったダメ教諭。
(本当に俺はどうしようもない奴だな‥)
気を緩めれば吐きそうになる溜息。 けれども今は公衆の面前に立っている。そんな真似は許されないし、何より自分が許さない。
だから精一杯心を込めて、校門を通過する生徒たちに朝の挨拶をする。

「おはよう」
「‥お、おはようございます。海堂先生」

返ってくるとは思わなかった返事に驚いて声の主を捜すと、一人の生徒が近寄ってきた。 顔には見覚えがある。確か、悪がきコンビと同じクラスの奴だ。

「‥高橋か。おはよう。どうだ、足の具合は?」
「はい、もともと大した怪我じゃなかったから大丈夫です」

照れたように笑って言う高橋に俺は安心した。

「そうか。なら良い。野球頑張れよ」
「え?」

ぱちぱちと目を瞬かせる。何か俺は変なことを言っただろうか。

「‥俺が野球部だって知ってたんですか?」
「ああ。二、三年の運動部員くらいは顔と名前、一致してる。それがどうかしたか?」

着任前に各部活ごとの怪我の傾向と発生時期とかを自分なりに調べていたので大体の把握はできている。

「‥すごいですね」
「は?」
「あ、それじゃあ、また!」

呟いて、時間が押していたのか俺の問いには答えず校舎の中に急いで入ってしまった。 気になるが、いなくなってしまったのだから仕方ない。
俺は気を取り直して挨拶を続けた。

「おはよう」

入学式にはあんなに咲き誇っていた桜も、今は若々しい葉が謳歌している。
初夏の風が、それらをさわさわと揺らした。





ゴールデンウィークの前日にかつての恩師が珍しく保健室にやってきた。
俺は驚きつつも迎え入れて、コーヒーを淹れるべくヤカンに火をかけた。
竜崎先生は俺が準備している間、室内を興味深そうに見回している。

「はー、この一月で随分さっぱりしちまったねえ」
「そうですか?」
「二月前にはこうはいかなかったよ。あんたは昔から整理するのが上手かった。 いつだったか桃城たちが散らかしに散らかした部室を部員たちに且つ入れて掃除させたことも私は覚えてるよ」

明るく笑って過去を語る竜崎先生に俺は気恥ずかしくなった。
俺は何百人も下手したらそれ以上いる教え子の中の一人に過ぎないのに、出来事を覚えていてくれている。 単純にすごいと思う。

「桃城といえば、ちょくちょくここに顔出してるそうじゃないか」
「‥‥ちょくちょくなんてもんじゃないっスよ!毎日っス!」

思わず力を込めて直してしまった。
竜崎先生はそれにも慣れた様子でからからと笑っている。

「同僚と仲が良いのは良いことだけどね、そろそろ世界を広げてもいいんじゃないかい?」

ドキリと心臓が跳ねる。
別段咎められているような声音ではない。 だけどその言葉に過剰に反応してしまうのは、きっと俺が自分でも分かっているからなんだろう。
カタカタと音を立て出したヤカンを火から下ろしてインスタントが入ったカップに湯を注ぐ。 香ばしい匂いが鼻を擽った。

「と、言いますと?」
「おや、気づいてないとは言わせないよ?」

答える代わりにコーヒーの入ったカップを差し出す。
受け取った竜崎先生は両手で包んで目を伏せた。とても、穏やかな仕草。

「人ってもんは変わっていくもんさ。良くも悪くもね。 海堂、アンタはちょっと自分の道を見失ってやいないかい?」
「俺は‥‥‥」
「目先のことだけに囚われるんじゃないよ。 お前が‥アタシらが大事にしなきゃならないのは誰だい。お偉いさん方かい。違うだろう」

シンクに身体を預けて考える。
誰に言われなくても本当は分かってる。
一番大切なのは、未来を担う子どもたちなんだってことを。

「その様子を見るに、分かっちゃいるんだろうね」

軽い溜息を吐いて竜崎先生はやっとコーヒーに口を付けた。 眉間に皺が寄ったのを見て、俺は砂糖を出していないことに気づいて慌ててスティックシュガーを渡した。

「どうもブラックは苦手でねえ‥」
「気が利かなくてすみません。ミルクも入れますか?」
「そうしてくれるとありがたいね」

なんだか一気に緊張の糸が切れた気がする。 これも竜崎先生の手の内だったら‥まだまだ敵わないな。

「探す気になればいくらでも道はあるんだよ。アンタは若いんだし。 頭が凝り固まんない内にたくさん考えて、たくさん行動しな。間違ってたってすぐ直せばいいんだからね」
「‥はい」
「自分の気持ちに自信を持ちな。頭の固いジジィどもに付き合う必要なんてないんだよ」

この先生にかかれば理事長たちもジジィか。 なんかもう、どれをとっても凄すぎて笑ってしまう。
俺は次第に気持ちが晴れていくのを感じた。
何に怯えるでもなく、自由にやっていって良いんだ。 大人になるごとにそれは難しくなるけど、困難を吹き飛ばせないとは海堂薫の名が廃る。

「竜崎先生。俺、俺らしい青学の養護教諭になります」

真っ直ぐ竜崎先生を見て決意を述べると、先生は顔をくしゃくしゃにして笑った。

「それでこそ海堂薫だよ」





「はー‥まったくバアさんには敵わねぇな、敵わねぇよ!一発でポンコツを直しちまうなんてよ」

四時間目。自分の授業が入ってないとかで保健室に顔を出した桃城は、今朝の挨拶活動についてどういう心境の変化かしつこく問い質した。
俺はあまり言いたくはなかったが、一応心配させてたので仕方なく竜崎先生との経緯を掻い摘んで話してやった。

「ポンコツって何だ!」
「だってそうじゃねぇかよ。最初っかららしくなかったんだよ!上が何て言ったか知らねぇけどしおらしく言いなりになっちまってて。 俺は着任式の時に泣いたね。あの海堂が飼いならされたー!って」
「‥‥‥!」

おちゃらけて言ってるが、内容は大体合ってるから言い返せない。
俺はコーヒーをぐびっと飲み干した。

「‥まあ、やっとお前らしくなってきて、良いんだけどよ。その‥なんだ‥」

皿に重ねて置いてある生地を一枚自分の皿に取って、生クリームの器からたっぷりと掬って生地に塗りつつ言い淀む。 今日はそば粉のクレープを作ってきていた。

「何だ、はっきりしろ」
「ったく、繊細な男心を分かれよ!こんだけ毎日顔合わせてんのに頼られないってのもどうかと思ったんだ!」

喚くと適当に丸めて一気に口に放り込んだ。食い汚いが、それは多分照れ隠しなんだろう。 ムスっとしながらパンパンに張った頬をもごもご動かしている。

「‥ばかが」
「いひおう、へんふぁいだろ!」
「口に入れたまま喋んな!ってか、お前先にここに就職してたからって先輩面かよ。 俺に『桃先輩』とか呼ばれてぇのか?越前じゃあるまいし」

ごくん、とでっかく咽喉を鳴らせながら飲み込んで桃城は新たな話題に食いついた。

「そう、越前って言えばよ、あいつちょっと怪我したらしいぜ?」
「ああ‥ニュースでやってたな。暫く療養するとか」
「あいつも筆不精でメールすら半年に一回あるかどうかだからまったく今の様子が分かんねぇ!」
「越前はプロで忙しいんだから仕方ねぇだろ」

俺たちの一つ下の後輩は今や世界のトップテニスプレイヤーになって世界中で活動している。
才能とそれを廃らせない努力とを持ち合わせた後輩がこの青学から、日本から飛び出していくのに然程時間はかからなかった。


だけど、一つだけ疑問がある。
アメリカの高校にテニス留学を勧められていたにも関わらず、高校は青学に進んだのだ。
プロ志向があるのに何で行かなかったのか、当時の部活仲間たちは問い質したが、奴は未だにその口を割っていない。
面倒だとかいう理由だったらぶん殴ってやりもしたが、
「今はまだ、‥日本に、青学にいたいんス。スクールも並行してやってるから大学からでも遅くはないっスよ」
とか真剣に言われてしまったらそれ以上は周りがごちゃごちゃ言うことじゃない。
だからもう気にしないことにした。結果的には奴は世界で成功しているし。


「お前らは仲良かったもんな。寂しいのか?桃先輩」

にやりと笑って言うと桃城は激しく噛み付いてきた。

「違う!!俺は別にっ!あいつだって!」
「わ、分かったって。そんなムキになんなくてもいいだろ」

予想以上の激しさに俺は驚いてしまった。何がそんなに気に障ったんだか。

「‥お前、絶対分かってない」
「何が」

ふと、沈黙が下りた。
不思議に思って桃城を見れば、今までにない色を瞳に宿している。
(――――ヤバイ)
慌てて俺は立ち上がって、カップを持って流しに向かう。 少し残っていたコーヒーもそのままに、カップに水を張ろうとした。
濡れそうだったので袖を捲くると後ろで椅子が動いた音がして、桃城が近づいてくる気配がした。

「海堂」

すっと左手を持ち上げられた。

「何すんだ!」
「消毒液でも付けたのか?変な色してるぜ」
「!」

触られて、わずかに痛みが走る。
治りかけの鬱血の痕。――――乾が付けたものだ。

「どうしたんだ、コレ」

養護教諭だからって希ヨードチンキ(消毒用イソジン)を手首に付ける可能性は高くない。
桃城はきっと分かっている。人物は分からないまでも、何によって付けられたものなのかを。
俺は口を噤むことしかできなかった。

「‥‥海堂」
「こんにちはーーーー!!!薫ちゃんいるー!?」

元気良くドアが開いてばかでかい声が響き渡る。
俺は咄嗟に桃城の足を思い切り踏んづけて奴を俺の身体から引き離した。

「いってーーーーーーっ!!!!」

足を抱えて悶える桃城に菊丸と不二は目を丸くしていたが、俺はそれどころじゃない。
(ちくしょう。まだ高校の頃の想いを引き摺ってやがったのか‥‥)

バクバクと速まった心拍を落ち着けるために、ふしゅうと一息。
俺は海堂薫という名の教諭だ。校舎の中では教諭でなければならない。

「お前ら少しは静かにできないのか!ここは保健室だ!」




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